食のエッセイ

酷暑と星座と収穫期をめぐって想いもめぐる

 前回の最後に、「夏の青空と白い雲」などと、元気を持て余していた青春の日々を想い起こすような表現を書きました。ところがいやはや、今年の7月以来の途切れない酷暑と、地域の偏った線状降水帯という、とんでもない大雨の集中。またしても気候変動の世界的な異変を思わせる状況が、日本でも生じました。被害に遭われた方々を思うと、心が痛みます。世界全体でこの問題への根本的対応が待ったなしだということを、今夏も痛感させられます。

 単発での旱魃や洪水などは、過去にもあったことです。すでに半世紀近く以前になりましたが、私が留学で滞在していたフランスの1976年の夏は、酷暑の日照り続きで雨が降らず、農作物の被害や、広い牧草地が枯れて真黄色になっている様子などが報じられていたことが、鮮明に記憶に残っています。それでもまだ、毎夏起こる地中海沿岸部での山火事の頻発といったような事態は、なかったように思います。当時、エアコンなどほとんどなかったフランスでは、例外的に空調のある店が繁盛していたものです。だいぶ前の回で登場してもらったディディエという友人は、当時住んでいたパリ市内のアパルトマン1階の自宅で、暑くて寝られないので台所のタイルの床に寝そべって過ごした、などとこぼしていたものです。しかし21世紀に入って以降のヨーロッパの暑さは、さらに酷い状況で、熱中症による死者数が多数にのぼる事態も出るようになっていますから、日本同様、いや世界各地同様に、深刻です。

 フランスでは、このような酷暑のことをシャルール・カニキュレールといいます。シャルールは熱や暑いことを示す名詞ですが、それについているカニキュレールという形容詞は、その元をなす名詞がカニキュルで、それはイタリア語のカニコラに由来して、じつは小さな犬を意味する名詞だった、というのが語源学者の説明です。謎めいていますね。なんのこっちゃ、という話に、少しつきあってもらいましょう。

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 このイタリア語のカニコラ、フランス語でカニキュルは、じつは天空の星、大犬座の首星シリウスにつけられた名称にほかなりません。シリウスは、ちょうど星を結んで犬か狼のような形にした、ほぼその鼻の位置に輝いている、恒星の中でももっとも輝度の高い星として知られている星です。ユーラシア大陸の多くの地では、真冬の空のオリオン座の近くで青白く光り輝くことから、さまざまな想像力をかき立てた星で、漢語では天狼星と言われるそうです。

 東京に限らず現代の都会では、夜空を見上げても星の一つも見えない無様なことになってしまっていますが、大量の照明の利用が進むまでは、そうではありませんでした。私が70年来住んできた吉祥寺あたりでも、小学生の頃までは大きなビルもなければ、ネオンサインなどもほぼありませんでしたので、オリオン座や北斗七星をはじめ、冬の澄んだ夜空には星がかなり見えた記憶はありますので、シリウスも目にしていたに違いありません。しかし高度成長期以来、それも終わりです。もちろん現在でも、山岳地帯であるとか、農地や草原が広がっている一帯などに行くと、夜空の星の多さに改めて驚くことがあります。10年ほど前に、新潟の広い農地の外れたあたりで見上げたペルセウス流星群の見事だったことは、感動以外言葉も出なかった記憶が残っています。夜空の星を結んで、さまざまな形を描き星座とし、物語を創出した古い時代の人々の想像力は、AIにばかり頼ろうとする情けない現代人より、はるかに優っていたのかもしれません。

 このシリウスは、古代メソポタミアやエジプトの頃から、人々が目印としていた星として伝わっていますが、古代エジプトではこの星をソティスと呼び、女神イシスの神殿も、ソティスが夏の早朝に輝く方向に合わせて造築されたそうです。ソティスはまさに、ナイルの氾濫が近いことを知らせてくれる、大切な星だったからだと言います。

 「早朝に輝く」と書きましたが、西ヨーロッパでも、7月22日頃から8月23日頃にかけての真夏の盛りの時期に、シリウスは日の出直前のわずかな時間、光輝いて見え、太陽が上がれば見えなくなる、そういう星として知られていました。シリウスとの位置関係がいまでは変わったというはずはありませんが、空の透明度の問題や、自然と即応した農業時代とは違って、そもそもそんなに早くから行動を開始しないとか、時計があるから空の星など気にもしない、という時代になっているわけですね、現代は。ただ、この時期がとりわけ、最も暑さが続く時節だということで、シャルール・カニキュレールという表現のみが、「酷暑」を意味するものとして現在でも通用している、ということなのです。

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 7月末から8月末にかけての酷暑の時期はまた、小麦や大麦、ライ麦など麦類の収穫期にもあたります。収穫時期は地域にもよりますし、作物にもよりますが、かつては最も小麦の生産地として名が通っていたボース平野、パリから南に、ロワール川近くまで広がる平野部ですが、ここでは8月がまさに収穫期でした。8月はフランス語で「ウト」と言いますが、それが動詞化した「ウテ」は「完熟する」とか「収穫する」という意味で使われ、「八月の男」を意味する「ウトロン」は、収穫作業員を意味する言葉として、ボース平野で使われていた、というのが、以前にも登場してもらった民俗学者ムノンとルコテの共著での説明です。かつての伝統的農業では、多くの農家は、特に大規模な農地を持っている農家は、収穫のタイミングを逃さないように、収穫には臨時で多くの作業員を雇ったものでした。機械化が進んで大規模化する以前、つまり20世紀半ばまでは、村や近隣で手工業に携わっている職人たちや、同じ農家でも小規模な自営で収穫が終わっている人たち、それに加えてフランドルなどの遠方からも毎年、決まった時期に援軍として手伝うわけです。もちろんそれは、彼ら収穫作業員にとっても、毎年あてにできる収入手段でもありました。

 特にフォシルという大鎌を操作して刈り取る作業は、熟練を要しましたから、毎年決まった信頼できる援軍は、農園の経営者にとっては重要なことであったわけです。援軍は、農園の納屋に寝泊まりし、収穫の仕事は日の出前の早朝から始まりました。それを告げるのが、夜明け前に輝いたシリウスだったのです。日中は暑すぎることも多く、早朝の方が効率も良い、というのが経験則だったということでしょう。まさに朝飯前の一仕事で、ひと段落した7時頃に、持参した朝食を農地で摂ります。そのあと、また仕事に精を出したあとの11時頃、本格的な弁当をやはり農地で食しました。多くの場合、二段重ねの弁当箱の下段には、豚肉とキャベツの入ったスープ、上の段には野菜サラダとチーズ。それに水はもちろんですが、ワインやシードルなどの食事とともに楽しむ飲み物。なんだかピクニックみたいですが、体力勝負の仕事には飲食も重視されていた、ということで、最近のNHK TVでのサラメシに登場して欲しいみたいなお弁当だったようです。残念ながら、ルコテたちの本には写真は添えられていませんが。

 刈り取った麦や干し草の山の日陰で、昼食後に1時間ほどの小休止をとるというのも合理的です。しかしそのあとは、日没近くまで作業は続けられ、夕方4時頃に一種のおやつタイムをとって、残しておいたチーズと飲み物で小休止する以外、ずっと仕事ですから、これは半端ではありません。緯度の高いヨーロッパの8月は、6、7月に比べれば日没は早まるとはいうものの、かなり遅くまで日は高いわけですから、長時間にわたる仕事に耐えられる体力が求められたということです。作業員は、農園の母屋で用意された夕食をとり、早々に納屋に戻って一寝入り。次の早朝にはまた作業のリズムが待っているのですから、体力勝負であったことも確かです。

 体力が必要であったことは確かですが、単なる力仕事ではなくて、適切に刈りとって束ねる技術、それを持ち帰るために荷車に積み上げる技術、道具を適切に扱う作法など、経験を重ねた熟練者から、次の世代の若手へと継承されていたものでした。腕っ節が強ければ誰でもよかったわけではなかったことは、よく分かります。収穫を持ち帰る最後の馬車には、豊穣の印であった「五月の木」が押立てられ、それを迎える農場の主人は祝宴を用意するのが慣わしだったそうです。雇う側と雇われる側とではあるのですが、共に無事の収穫、自然の恵みに感謝しあう共食の宴、「共同で力を合わせて生きる」コンヴィヴィアルな関係を確認し合う作法であった、という理解の仕方は、分かる気がします。7月末から8月末にかけての酷暑は、下手をすれば災いをもたらしかねない時期を意味しましたから、大犬座が太陽の動きと同調するこの時期を無事に乗り越えることは、何にも増して重視されたのでした。

 20世紀後半から広がる、大規模な散水装置や収穫機械などの普及は、たしかに農作業の軽減や効率の向上をもたらしたがゆえに、不可避の展開ではあったのですが、他方で、人が生きることと自然とのやりとり、人の身体性と協働の持つ可能性、また想像力の重要性といった、人間が生きる上での基本的な諸要件について、改めて考える必要を迫っている時代に私たちは生きているとも、考えさせる今夏の酷暑です。

2023.08

著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。

著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。