食のエッセイ

にぎりめし考

 日本に生まれ育った人にとって、例えどんなに気持ちが荒んでいようとも、落ち込んでいようとも、それさえ差し出されれば心が一気に温まる、そんな食べ物とは何であろう。個人差はあると思うが、恐らく多くの人が頭に思い浮かべるのは「おにぎり」ではないだろうか。このおにぎりという食べ物が私達日本人にもたらす安心感は、世界がどれだけグローバル化しようとも、きっと他国の人に根底から理解してもらえることは無いだろう。昨今の日本には海外からの観光客も増え、コンビニエンス・ストアでおにぎりを購入していたり、食費節約目的なのか道端でおにぎりを頬張る外国人を見かけることもあるが、彼らはこの米を手のひら大に握った食べ物をどう解釈しているのだろう。アメリカ人にとってはサンドイッチやハンバーガーみたいなものなのだったりするのだろうか。実際イタリア人達を引率して日本を旅したときにも、小腹が減ったという人におにぎりを勧めて食べてもらったことがあったが、やはり彼らにとってのおにぎりはおいしい、まずい以前に異文化圏に来たら一度は体験しておくべき、エキゾチックな携帯食ということらしい。

 そのむかし、イタリアでの留学生活を始めて間もないころ、当時暮らしていたフィレンツェからローマへ行くために乗った急行列車のコンパートメントで、私は家から作って持って来たおにぎりを鞄から取り出して食べ始めた。といってもフィレンツェの家には炊飯器も無かったので、「おにぎり」とは名ばかりの、イタリアのお米を普通の鍋で炊いて日本から持って来た海苔で包んだ、具も何も入っていないシンプルなものだ。ところが、このおにぎりを食べ始めたとたんコンパートメントの中が異様な空気に包まれた。海苔から漂うイタリア人には嗅ぎ慣れていないであろう独特な磯臭さのせいもあるのだろうが、まず彼らには私がむしゃむしゃ頬張っているものが何なのか、一見しただけではわからない様子だった。私の向いのシートには就学前の小さな男の子と、その隣には彼のお母さんが座っていたが、目をしかめてじっと私の食べているものを見つめていたこの子が小さい声(と言っても外にも漏れる)で、「ママ、あの人、子供のアタマみたいなもの食べてるよ」とおどろおどろしく呟いた。「違うのよ!」と即答出来ずに戸惑うお母さんと、他の乗客の目も気になったので、「これは白いお米を丸めたものを海藻で包んだものです」と説明をした。すると皆の表情はとたんに緩み、「ほら、ナポリでもトマトで煮込んだ米を丸めたコロッケがあるじゃない」だの「トスカーナでは米とミルクを煮込んだクリームの入った菓子がある」だの、イタリアでの米を加工した食べ物についての論議で一気に煩くなった。

 子供がポルトガルの学校に通っていた時、ものは試しでお弁当としてこのおにぎりを持たせたら、帰宅早々「もの凄く面倒なことになったからおにぎりは今回で最後にして」と言われてしまったこともある。でも外国人の中には、「ああ、あの日本のアニメでよく登場人物が食べている白黒のやつね!?」とか「日本映画で見た時からずっと何なんだろうと思ってたやつだ!」というような反応をする人達もいる。かといってそういう人達に張り切っておにぎりを振る舞ってみたところで、やはりどうも黒々として独特の臭いを放つ海苔にハードルの高さを感じるのか、そんなにおいしいと感じるものでもなさそうだった。そんなわけで、これだけ長い間海外に暮らし、外国人の家族を持っても、おにぎりは日本人である私のアイデンティティをはっきりと浮き彫りにする食べ物であり、おにぎりに対する思い入れも自分だけにしかわからないものとして今に至っている。

 母子家庭で母がオーケストラの楽器奏者だったため留守がちだった我が家では、おにぎりは私と妹の常食だった。母は自分がコンサートで遅くなる時は必ずおにぎりを握って机の上に置いていく。それ以外におかずを買う為の千円札がおにぎりの皿の傍に彼女の手紙と一緒に添えてあるのだが、私は真面目な妹と違って折半した五百円で漫画や本を買ってしまうから、大抵いつもおにぎりだけしか食べるものがなかった。でもそれだからこそ、2つしかないおにぎりは私にとって世にも尊い食べ物だった。ご飯釜に炊けているお米をお茶碗に持って食べるのと違って、おにぎりはその形状上、お米を握った人の温もりを想像させてくれるというのも私にとっては大きかった。おにぎりを好物としていた放浪の切り絵画家山下清は、お腹を満たす事もさることながら、おにぎりを通じて出会う人々の温もりを摂取していたのだろう。

 とはいえ、母の作るおにぎりは、実はそんなに完成度の高いものではなかった。中身は大抵梅干か醤油で浸した削り節。同じ削り節が当時飼っていたネコの茶碗にも掛かっていたりするから、我々が特別扱いを受けていたというわけでもない。しかも形状は、悉く丸い。丸にびっしりと隙間無く海苔が貼られている、見た目的には真っ黒な状態のものだ。だから、よく遠足などで一緒にお弁当を広げたお友達のおにぎりが綺麗な三角だったりすると、猛烈に羨ましかった。しかもその三角形の底辺からきれいに長方形の海苔が貼られているのを見て、おにぎりとは本来こうあるべきだ!と感じた私は、母に三角の形状で海苔で全てを覆わないおにぎりを作ってくれと頼んだことがある。

 しかし、母がいくら頑張ってそれらしくしようと思っても、なぜか完全な三角には握れないのを見て、不思議な気持ちになった。母は途中で「ダメだ、無理!」と投げ出してしまったが、私は後に自分で練習して三角形のおにぎりを握れるようになった。それ以来未だにおにぎりを作ろうと思うと、自然に手は三角形を握る形になってしまう。おにぎりというのは一度一定の形で握るのに慣れてしまうと、他の形状にするのはそんなに簡単なことでもないらしい。そう、形だけでなく握る時に手のひらにまぶす塩(人によってはおにぎり用のお米に既に塩を混ぜてしまう場合もあるらしい)、海苔の貼り方。おにぎりを包むもの。そして何より、米を握る時の握力。おにぎりはそれを作る人の人間性や育った環境が何気に露わになってしまう、人様の家の押し入れの中みたいな食べ物なのである。

 かつて遠足の時にお友達とそれぞれのおにぎりを交換してみたことがあるが、その時私に当たったおにぎりは、デパートの包装紙で直に包んだ黒くて丸い母のものとは違うラップに包まれた小振りの三角形で、表面にごま塩が振ってあるものだった。いつもと違うおにぎりは確かにお米の味も食感も何となく違う。いろいろ新しくて美味しかったのだが、気になったのは、お米からほのかに、微量の石鹸の風味が感じられたことだ。なにかとガサツな私の母と違い、そのおにぎりを握ってくれたお母さんはきっととても几帳面で、清潔好きで、お弁当作りも一生懸命やってくれる人なのだろうな、という想像がその時の私の頭を巡った。

 私のおにぎり好きは今も変わらず、イタリアと日本を往復するために長時間飛行機に乗る時は、機内食を断ってコンビニで調達してきたおにぎりを食べることが多い。おにぎりは携帯食でありながら、お弁当と違ってごろっと鞄の中に転がしておき、好きな時に取り出して手を汚す事無く食べることができるという利点がある。

 どこへ行くにしても、いざという時のために自分の鞄の中におにぎりが入っていると思うとほっとするのは、おにぎりにはやはり他の食べ物にはない温もり感があるからなのかもしれない。そういえば、ハワイ暮らしの自分の息子に「日本に帰った時ってまず最初に何を食べたくなる?」と聞いたら、やはり「おにぎり!」と即答された。おにぎりは、我々日本人にとって心身の疲れと空腹の〝癒し番長食〟なのである。

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。