西江雅之 × 東陽一 対談 「食で思いを巡らせて」

文化人類学者で言語学者の西江雅之氏は、今まで世界中をめぐって、様々な文化に接してきています。一般の旅行ではとうてい想像もできないほどの、多様な伝統や習慣の実体験をしてきたその西江氏と、映画監督として長いキャリアと数多くの作品を手がけてきた東陽一氏のお二人に、「食べる」話を中心に語り合っていただきました。 (写真:左・西江雅之氏 右・東陽一氏)

第1章 ムシ、ニワトリ、ドジョウ、そしてコッペパン

司会
お二人の記憶の中の食、できれば幸せな食の記憶について教えていただけますか。小さい頃の食の話など、お教えいただければ。
西江
ぼくは東京の本郷生まれで、その頃のことは何も思い出せません。前の大戦中の疎開先からの記憶が人生の始まりでしょうか。
ぼくは学生時代に、西江さんのお父さんに英語の授業を受けたことがあるんですよ。
西江
ああ、そうなんですか。
今までは、そんなことは関係ないと思ってお話もしなかったんですが(笑)。
西江
ぼくは4~5歳のときに、兵庫県の内陸部に疎開しました。その頃は、そこは寂しい村でした。上の兄弟が3人いましたけど、周囲から東京っ子といじめられて大分困ったんじゃないでしょうか。でもぼくは5才、そこで人生が始まったみたいなものです。ぼくは、何故か小さいときから普通の家庭の食べ物をあまり食べませんでした。これは兄弟達と今でも話すんですが、とにかく外に行って虫を捕まえたり草を食べたり……。もちろん、食草でしたが。
虫って、どんな?
西江
セミからトンボから、なんでも。イナゴは常食でした。それを自分で焼いて食べていたので、ただ、今思い出しても、どうやって火を作っていたのだろうなとか。
お家では、ちゃんと食べるものがあったんでしょ?
西江
ええ、疎開先での食糧危機ということではないんです。家族はみんな普通の食事をしていました。 なぜなのかわからないんですが、ぼくだけは家の外でも食べていた。虫とか小鳥とか小動物とか、魚も川で捕まえました。
司会
どうやって捕まえていたのですか。
西江
一番よく覚えているのはドジョウの捕まえ方です。家のそばにある溝、そこでドジョウが眠っているんですね。その昼寝しているドジョウに、細い草でなげ縄をつくって、首のところからすっと縄をかけて、そこで捕まえる。ドジョウを釣るんじゃなくて草で輪っかを作って捕まえる。それが得意技でした。
そうですか、ぼくもドジョウは捕まえたことがあります。でもそれは自分で食べるんじゃなくて、ニワトリの餌でしたね。
西江
もうひとつは、竹の棒にクギをつけて魚を刺していた。棘があるギンギという魚で、ナマズみたいな魚もいました。当時は大川と呼んでましたが、揖保川で、魚を突いて捕まえて、火を使って食べてました。とにかく焼くだけ、全く味も付けずに。
それは子供心に、味覚としては美味しかったですか?
西江
美味しかったですね。どうやって火を作ったのか、覚えていないんですが、たぶん家の土間のかまどから火を取ってきたんでしょうね。マッチなんて子供に持たせられませんからね。
いつごろのこと?
西江
昭和16年くらい。戦争が始まる直前くらいでした。その頃は数え年で5歳ぐらい。
ぼくは西江さんより3つくらい年上なんですね。でもそういう食体験はない。西江少年は、なぜそんなものを食べたくなるのか、自分でも理由がわからなかったんじゃないでしょうか。
西江
全くわからない。草については、誰かにこの葉っぱは美味しいとか、この葉っぱはどうとかを教わった記憶はあるんですが、誰かと一緒に食べたという記憶がなくて、いつも一人なんです。近所に友達がいましたが、ぼくと同じように食べていた人はいませんでしたね。熟していない麦の穂とかも食べてました。
麦の穂、あれは痛いですよね。
西江
痛いんですよ。間違えると痛い。トゲが逆を向いていて、口の中に入ると戻せない。
普通の子供はあまりやらないですね。
西江
近所の子は、家に帰って、あたりまえのご飯を食べてました。
では、何か理由は良くわからないけれど、自然が呼んだんですかね。西江雅之という少年を。
西江
小学校に入ったときに強烈に覚えてるのですが、家の前に溝があって 、そこに小さな板きれの橋がかかっていて、その橋の下に、フナが3匹隠れていたんです。
たぶんそれは農業用水の溝でしょう。
西江
そうそう、人工のものです。その流れがとても速い。その流れに逆らって3匹のフナが、じっとしているんですよ、流されずに。これを捕ろうと思って網を入れたとたんに、ぱーっと散って逃げるんです。そしてついに東京に帰るまで何回挑戦しても捕れなかったんです。これが今のぼくの精神を支えているんじゃないかと。
止まっているように見えるんですよね。でも実は彼らは流れに逆らって泳いでいたわけだ。
西江
そうなんです。それで捕ろうとすると、瞬間的にパッと散るんですよ。それをがんばって、がんばって、挑戦をしてもついに捕れなかった。1年以上 挑戦をしたと思います。
いまだに覚えているというのは、一種の敗北感ですか。
西江
いえ、敗北感ではなく、がっかりしたわけでもなく、いつか捕ってやろうと、意欲がわいてきた。それが強烈な思い出なんです。
ぼくの食体験なんかとはぜんぜん違いますね。だいたい西江さんの幼児時代の食体験は、あんまり一般的とは言えないでしょう。
西江
ぼくは疎開先に3年くらい居たと思います。小学校に入った年に戦争が終わったんです。田舎には小学校2年くらいまでいました。そして東京に帰ったら、以前に住んでいた所と景色が違っていた。東長崎(豊島区)に住みました。その家は無事に残っていましたが、あたりには焼け跡が沢山残っていました。

食のことを考えると、ぼくは手が込んだ「料理」というものはあまり食べない。幼いころから肉なら肉、魚なら魚と原形がはっきりしているものじゃないと、滅多に食べないんです。肉は固まりじゃないとだめ。 ひき肉とかは食べない。煮物もだめ。もっとも、最近は人づきあいで何でも食べますが。
司会
なぜ形のあるものじゃないとダメなんでしょう。
西江
あのー、それは、言ってみれば忍者の思想です。他人はそこまで信用できない、という思想ですね(笑)。
形が変わったものは、誰かが加工したものだから、それが嫌なんでしょうね。
ぼくは和歌山県の、昔は高野山領だった山村で育ちました。京都には今でも昔の「鯖街道」の名残がありますよね。若狭湾でとれた鯖なんかの魚を京都市内まで走って運んだ道ですね。おんなじように海から遠い山村で、魚なんていうのは塩からいものと決まってました。「鯖の塩焼き」なんてものじゃなくて「塩鯖」そのものです。必ず強く塩がしてありました。あとの主食は、和歌山県ですから、たいていは茶粥ですね。お茶で粥を作るわけです。

そういう日常の中で、当時の一番新鮮な蛋白源は、鶏肉ですね。今思い返すと、まず祖父がひよこを孵し、ひよこを育てるのが母で、そういう生活の中での最高のご馳走は、3ヶ月に一回くらい鶏をつぶして食べる「ボッカケ」ですね。食べられる部分は全部スープにいれて、ご飯にぶっかけて食べる。

鶏を絞めるのは父親の仕事です。血はお祖母さんの大事な食べもので、煮るとレバーみたいな味になる。鶏をつぶす時は、あとからわかったことだけど、おふくろはいなくなるんです。母は鶏の顔を全部知っているので、それを父親が絞めるのを見たくない。で、絞めおわった頃にどっかから現れる。父が血抜きをした鶏を熱い湯にさっとつけて毛を抜く。それからさばくわけです。ぼくは子供心にそれをさばくのが面白くて、ずっと見てました。でもその場には、やはり母はいないんです。全部が「鶏の肉」になってから、母の仕事が始まる。要するに、顔まで見覚えている鶏がつぶされる現場にはいたくないわけです。それを見ると食えなくなるから、何気なく外出してた。そういう生活の知恵が自然に備わっていたんですね。
西江
その気持、大いにわかります。
飼っているもの、生きているものの命を絶って、「食べもの」に変えるということにぼくは子どものときから、自分は食うくせに、なにか矛盾を感じていて、それは、自分の精神の尻についた「蒙古斑」、それも一生消えない蒙古斑のように感じてきました。

この「映画と食」という連載のテーマを書いているとき、命と食というのは何かいつも矛盾に満ちているものだという気持から、なかなか解放されなかったですね。「命を大切に」とか言いながら、なぜ生き物の命を奪って食べなきゃ生きていけないのか、というのが、ぼくの中学生のころからの精神の蒙古班で、赤ん坊の蒙古斑は数年で消えるけど、この自分の精神の蒙古斑は、いまでも消えませんね。
西江
ぼくも田舎にいるときに、同じような思い出があります。当時、家ではウサギを飼ってました。毎日世話をしていた二十歳くらいのお手伝いさんが、ウサギをつぶした日に、暗闇の中でひとりでそっと泣いていたのを克明に覚えています。
そうでしたか。でもお手伝いさんは肉になったら食べたのでは?
西江
それは覚えていないです。
うちでは、肉になると母は食べることができたんです。矛盾に満ちているわけです。そんなことが、ぼくのトラウマになっていますね。この問題はどうやっても合理的に説明できるものじゃないですね。作家の埴谷雄高さんも、それをめぐって『死霊』の第七章でしつこく書いています。ガリラヤ湖の魚を食べたイエスが、暗い影の国にいるその魚の魂に糾弾されるとか、釈迦が食べたチーナカ豆に糾弾されるとか……。
西江
小学二年で東京に戻ってきてからは、家の周辺のスズメからみた世界、アリからみた世界などの図を描いていました。色々な動物の視点から見た世界です。科学的なそれぞれの目の構造は知らなかったから、あくまでも人間の目としてアリになったりスズメになったりした視点です。小学校3~4年生の頃は絵の時間に、素材を前にして、上から見た図や違う方向から見た図など、描いてばかりいました。
鳥瞰図だったり、視点を変えるなんて、面白いですね。
西江
それが嵩じて、画像のイメージというのがパッと浮かぶようになったんです。ぼくは映画を作ろうと思ったことはないのですけれど。例えば今、ここで写真を撮るのならば、どの角度からどう撮影したら良いかなど、そんなことを考える癖がつきました。
つまり西江少年は、視点を移動したら、あるときは全く別の形が見えたりする、ということを知っていたわけですね。それは凄い力だと思います。
西江
都会の中でも野生のような生活をしながら、東京に来て初めて、給食というものがありました。その頃は、2部授業、3部授業までありました。午前のクラス、午後のクラス、その後にもクラスがある。6人くらいに1冊のガリ版刷りの教科書を共通で使っていました。ぼくはうちに持って帰って、それを写していたのですけど。 その頃、給食でパンというものをはじめて見たんですよ、コッペパンを見て。世の中に、こんなに白くてふわっとして美味しいものがあるのか、と。人生最初に感激した「食べ物」でした。それまでは何でもが、単に「食べているもの」でしたが、人生最初の「食べ物」がコッペパンでした。
「食べられるもの」と、「食べ物」との違いを発見したわけですね。大変な発見だ。

西江雅之(にしえ・まさゆき)氏   1937年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
プロフィール

東 陽一(ひがし・よういち)氏   1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。
プロフィール