何処に行っても地球は我が家

第4章 コモロを訪ねて

“コモロ”。その地名を知っている人は日本では珍しい。しかし、そこはシーラカンスが捕獲された土地だと言えば、シーラカンスがいかなる生き物なのかその意味が正確に分ったかどうかは別として、多くの人は、それならば知っているという返事をするだろう。シーラカンスは、3億年とか3億5000年前の時代に生存していたとされる生物で、一応、魚の一種だとされている。“生きている化石”とも言われている。その生物が発見され、実際に捕獲され、初めて世界で話題になったのは、1930年代の終わりのころである。また、その生物について多くの人びとが口にするような知識となったのは、1900年代の後半に入ってからのことである。

コモロ諸島はアフリカ大陸の南、モザンビーク海峡の中に位置する。アフリカ大陸の南部、モザンビーク国とマダガスカルの間の海上にある。そこは、インド洋の西の端とも言える場所である。コモロ諸島は、かつてのフランス領で、グランド・コモール島(島での名は“ンガジジャ島”)、モヘリ島(ムワリ島)、アンジュアン島(ンズアニ島)、マヨット島、(マオレ島)の四つの小さな島で構成される。第二次大戦終結後も、しばらくはフランス領であった。しかし、60年代の「第三世界独立の年」前後から、島々はフランスからの独立を巡り、住民の間に複雑な政治的な動きが見られた。コモロが“イスラム連邦共和国”として独立を達成したのは1975年である。しかし、四島の内の南端にあるマヨット島は、住民投票によって、フランスの一部として残ることを選んだ。そしてマヨット島は今もその地位を保っている。

コモロの独立後の政治状況は不安定なものであった。クーデターや大統領の暗殺などを重ねたが、国はなんとかやり繰りしてきている。他方、人びとの生活はおおらかで、困窮した様子はない。島民のほぼ全員が熱心なイスラム教徒であるコモロ国では、その安定感はアッラー(神様)の恩寵によるものと信じられている。

そんな島を訪れて見たいと思いついたのは、観光が目的だからではなかった。東アフリカの言語、特にアフリカ大陸の東側の沿岸部で話されているスワヒリ語と、コモロ諸島の言語との関係を確かめてみたかった。島々におけるスワヒリ文化とも言えるものの影響が、その島々ではどの様なものなのかを知りたかったからである。

とは言え、そんな旅を自費で実現することは難しい。まず、旅費の問題がある。幸運なことに、それは何人かの身近の知人の援助で目当てはついた。次に、コモロ国への入国許可の問題がある。日本にコモロ国の代表部があるわけではない。そういう場合、日本の国内に政府機関を置くどこかの国が入国査証の世話などをしてくれることがある。しかし、コモロの場合はそのような便宜を提供する機関はない。次の可能性は、まずヨーロッパのどこかの国に出向いて、そこでコモロの出先機関を訪ね、入国の手続きをとることだ。しかし、いろいろ調べてみたが、その手続きは難しい。それどころか、当時は日本人の入国すら難しいとのことが分った。 しかし、とにかくコモロまで行ってみようと心に決めて出発した。
京からパリに、パリからマルセイユに、さらに飛行機を乗り換えてサウディアラビアのジェッダに、そこからタンザニアのダルエスサラームに、さらにコモロの首都があるンガジジャの空港に向かった。地球は広いという感想が脳裏に浮かんだ。

実際、その行程は片道50時間を超えたのだ。まず、空港に着く度に、機内のどこかに故障があり、到着と出発の時間が大幅に遅れた。最大の出来事は、ジェッダからダルエスサラームに向かう途中、機内の窓から外を見ると、なんと主翼の中程の継ぎ目から数メートルにわたって炎が吹き出しているのだ。大変だ、この飛行機はどうなるのだろうと思ったが、他の乗客はそれに気がついているのか、いないのか、わたしには良く理解できないのだが、何事もないかのように平然としている。

その後も飛行機は飛び続け、ダルエスサラーム空港に無事に到着した。しかし、そこで機内放送があり、「飛行機に故障が出たので、それを修理するまで出発時間が少々遅れます、お待ち下さい」とのことである。そして数時間、乗客は機内で過ごすことになったのだが、飛行機は数時間経っても出発する気配はない。ようやく知らされたのは、修理に必要な部品がないので、それを調達するまで待って下さいとのことであった。そんな調子で、東京出発から50時間を超しても、わたしはまだ機内にいたのだ。

飛行機での長旅の末にコモロの空港に辿り着くと、そこは田舎の駅の待合室といった感じの場所だった。飛行機から降りた乗客は、入国審査所を目指して一斉に走り出した。それは、機内で先ほどまでは大人しく席に着いていた人びととは打って変わった姿だった。入国手続きのカウンターの上には、アッと言う間にパスポートの山が出来た。わたしの頭越しに、パスポートが次々にカウンターの上に投げ込まれる。それを役人は思いつくまま拾い上げ、審査を始めた。暴力的な行為は一切見られなかったのだが、どうも順序というものがないらしい。

わたしもその混乱に乗じて審査を終え、空港の外に出て、そこでたむろしていた車の運転手に声をかけ、とにかく一泊目の宿がありそうな場所に連れて行ってもらうことにした。そこで知ったのは、島ではスワヒリ語は通じないということだった。観光案内書には、コモロではスワヒリ語が通じると書いてあるのだが、どうもそうではないようだ。運転手にアラビア語で話しかけると、ある程度は分るらしい。しかし、結局はフランス語での会話となる。

数日の滞在中での調査の後に分ったことだが、コモロの中心地では、住民のほぼ全員がアフリカ系の黒人である。彼らは熱心なイスラム教徒で、生活では彼ら自らの言語であるンガジジャ語とフランス語、そして教養がある人びとはアラビア語に堪能ということだった。また、その人びと中には、マダガスカル系の住民がいて、彼らの中にはキリスト教徒も少なくない。

とにかく、無事に入国ということになり、長旅からも解放されてホッとしたので、一日目は旅の疲れを癒すためにも、良さそうなホテルを選んで泊まることにする。日が沈むころ、黒い海原が目の前に静かに広がる食堂に行ってみる。オーナーなのだろうか、フランス人の老人のほかに人影すらない。わたし以外に宿泊客はいないのだ。そのためか、メニューに出ている料理は、書いてあるだけで、実際にはほとんど無しである。鶏の痩せた脚を焼いた料理に何とかありつき、ビールを飲み、次々に近づいてくる蚊と闘う。人口の99%はイスラム教徒で、アルコール類は禁止されている筈の国であるが、外国からの客には南アフリカから来るビールに制限はない。
朝、町外れを散歩中、一見したところ金太郎を思わせる顔立ちと、充分に肥えた体格のお婆さんと知り合いになった。話しをする内に、そのお婆さんはコモロの生まれではなくて、大陸の内部のウガンダの出身だという。どのような経緯で、彼女がこの島の住民になったのかは敢えて尋ねなかったが、その様子から見ると、彼女はウガンダの都会で夜の商売をしていたのだが、何かの縁があって、この島に流れ着いたのだと推測した。それは、あらかたわたしの勝手な想像でのことではなくて、彼女が話すウガンダ時代の生活の話題からもヒントが得られるものであった。

彼女の家に立ち寄ると、焼き芋風のマニオク料理と、甘いお茶を出してくれた。料理場になっている土間には山羊が2頭遊んでいて、わたし達を見ると餌をねだって側に寄ってきた。別の方向を見ると、大きな陸亀がのそのそと歩いている。「あれは、わたしの家の家族の一員なんです」と、彼女は言った。亀はマダガスカルにいる種類だが、もう何年もこの家で生活しているのだそうである。「あなたはちょうどよい時に、この島に来たんです。実は、この半年ほどこの辺りは停電だったのですよ。」と、彼女は満面に笑みをたたえ、事も無げに言う。

うらやましい時間感覚である。半年間も待つということは、大したことではないのである。それに、近所の家々にはもともと電気は通っていない。彼女の家は、その界隈では高級住宅なのである。近所には川らしきものはない。炊事用の水は、雨の溜め水に頼る。燃料は近所の林で集めてくる薪である。食事をしていると、近所の人が顔を出し、雑談に加わる。わたしはイスラム風の挨拶を交わし、この土地にあるモスクの所在地などの情報を得る。いよいよコモロ生活の開始である。
たしには言語調査という課題がある。まず、この近辺には本屋があるかを尋ねる。町に行けば、本屋が四軒あると言う。その本屋を半日かけて廻ってみるが、そのうちの二店には本が一冊もない。「本がある本屋はどこに」と店員に尋ね、そこに辿りつくと、一軒には十数冊、もう一軒には三十冊ほどのフランス語の雑本が、棚の上に並べてあるだけだ。わたしが必要としている種類の本ならば、たとえ入門的なものでも、何かの参考になると思うのだが、そのようなものは一切ない。

当然のことだが、コモロ関係の本を手に入れるなら、わたしが行きつけの本屋が幾つかあるパリに行った方がよいのだ。それでも地方によっては、そこだけで見つけられるような自家製で安値な本が見つかるかも知れないと期待する。しかし、そもそも紙に文字が印刷されているものすらないのである。このことに関しては、町のモスク(イスラム寺院)に行けば、コモロに関しての情報を含む本が手に入ることが分った。ただし、言うまでもなく、内容はイスラム教関係のものに限られている。

別の店で手に入れた絵はがきを持って、中央郵便局に行くと、窓口の係が「実は切手がなくて」と言う。しかし、局員は親切だ。わたしの背後に並んでいる他の客を放っておいて、「ちょっと、探してきますから」と、席を空けて30分以上も戻ってこない。その間、列を作っていた他の客たちは、それしきことは何事でもないといった風で、和やかな顔をして、係の帰りを待っている。「ありましたよ」と、係の者が数種類の切手を手にして戻って来た。コモロの生活は金次第ではない。それを支えるのは、人びとの心のあり方なのである。時間も豊か、心も豊かなのである。
かし、コモロにも“現代”が押し寄せていることが、すぐに分った。海岸にそって作られた新しい道路には、傍若無人に車が走る。歴史を石壁に染み込ませたモスクの前面を、場違いな装いをした紳士と、彼らの自家用車がふさぐ。船着き場には、手漕ぎのカヌーが集まっている。それはインドネシア風のカヌーで、本体の両側にバランスを取るための浮材が付いている。その側に、投げ捨てられて岸辺と海面の区別がつかないほどに積み重なった空き缶やプラスチックのゴミが、異様な匂いを伴った煙を上げている。ゴミを山盛りにした容器を頭の上に載せた女がやって来て、ドサッとゴミをぶちまけ、ニコリと笑みを浮かべて、わたしに挨拶をした。その挨拶行動は、彼らが何世代も保ち続けてきたものなのだ。しかし、それに伴ったゴミは現代生活が生み出したものなのである。美しい海、人びとを支える優しい対人行為、そして積み重なるゴミ、このような組み合わせを目の前にしていると、なんだか気分が落ち着かない。

だが、コモロはやはり幻想的な島である。紺色の夜空に浮かぶ月は、まばゆいばかりに明るい。かつて、コモロ諸島は「月の島」と呼ばれていた。島々の並び具合が三日月に似ているからだと言う。しかし、「月の島」と呼ばれるのは、この幻想的な月明かりのためなのではないだろうか。島の中央を占める活火山、カルタラは、思い出したように噴火する。そこから海岸に向けて流れ出た溶岩は、黒く焼けただれた原をつくる。そのすぐ側に、村人が住む簡素な家々が点在する。

朝の町は一見に値する。島民の社交の場でもある市場では、派手な模様のレソという布で頭部から体全体を覆った女たちが、言葉を交わし、その場を賑やかにする。女たちの中には、顔を黄色や真っ白に塗りたくった者がいる。それは宗教的な意味を持つものではなくて、化粧の一種なのである。日焼けを避けるため、嫌な虫を避けるためなどと、さまざまな理由が挙げられるが、本当のところは単なる化粧の一種であるに過ぎないのだろう。女たちのなかに混ざって、イスラム教徒であることを示す帽子(コフィア)を被り、寝間着のような形の白い貫頭衣をまとった男たちが、所狭しと並んだ店の間を縫って行き来する。立ち並んだ店からの客寄せの声はなく、客からの値切りの掛け声もない。ただ、人びとの装いの色彩だけが賑やかである。

水平線の彼方に目をやると、群青の海に紺碧の空が覆い被さっている。その青の連続を切り裂くように椰子の樹が聳え立っている。椰子の大きな葉の間を縫って、翼の幅が1メートルを超える大コウモリがゆったりと飛び交っている。その種のコウモリは、もっぱら果物を食べているのだ。

一日に5回、アッラーへの祈りに人びとを誘う声が、先ほどまで聞えていた。その声は、モスクの拡声器を通して、町中に響き渡っていたのだった。コモロでは、それなしには刻(とき)の流れは止まったままの如くであった。

西江雅之「何処に行っても地球は我が家」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。