何処に行っても地球は我が家

第3章 台湾の金門島《砲弾と包丁》

には自分勝手な旅行をしてみたいと思うことがある。しかし、それに要する時間的な余裕も、経済的な余裕も、自分には簡単に見出すことはできない。

それでも思い出してみれば、この半世紀の間には、国内国外に関わらず、様々な土地を訪れていることがわかる。それは、わたしが仕事のうえで行なってきた旅とは、大分異なった体験でもある。

旅行先のなかで、最も気に入っている場所の一つは台湾だ。料理が美味しいとか、人びとが親切だからというのではない。どうも台湾は、わたしの肌と合うのだろう。

台湾を初めて訪れたのは、すでに半世紀以上も前のことだ。当時は、単なる旅行で台湾に行く日本人は少なかった。台湾内でも日本語の本が禁じられていたし、台湾内での移動にもある程度の制約があった。そういう時代だったのだ。たとえば、台湾の中心部に連なる山地に住む人びと(当時の日本では髙砂族と呼ばれ、現在の台湾では原住民と呼ばれている)の土地に入るのも、国内の政治事情で難しかった。

それでも、わたしは彼らの居住地に入り、とてもありがたい経験をさせてもらった。そのうちに、台湾南東部の離島・蘭嶼島、南端の琉球島などを訪ねるようになり、やがて、台湾への旅は離島めぐりが目的の一つのようになってしまった。

の数年は、台湾と中国大陸の間に散る島々を訪ねる機会が多かった。言うまでもなく、それらの島々は、国際政治状況の下では非常に複雑な場所である。そして、その種の話題無しには、一般的なことすら話題にできない。

しかし、それらの問題は、あえてひとまず置いておいて、わたしがこの5年ほどの間に3度も訪れることになった金門島(キンモントウ)での思い出を話してみたい。

金門島は、現在、台湾領内にある。すなわち、台湾の離島である。何故、このようなことに念を押さなければならないかというと、実は、金門島は台湾本島からは200キロほども離れているのだが、中国大陸からは最短距離でわずか2キロほどしか離れていないのだ。そこは中華人民共和国(中国)福建省沿岸の厦門(日本名・アモイ、一般名・シャーメン)の目と鼻の先である。小舟で少し沖合に出れば、金門島の住民の姿さえもはっきり見えるほどの近さである。しかし、そこは最近まで、台湾から見ても、中国から見ても、最前線地域であった。

国際政治の移り変わりは速い。近年、中国と台湾の政策にも大きな変化が見られ、現在では、大型フェリーで1時間足らずの道のりで、両岸から一般人が行き来できる。わずか数年前までは、その海を渡ることのできる日が、こんなに早く来ようとは想像さえできなかった。

とにかく難しい政治状況を抱えた島である。第二次大戦後、この島が台湾領土となってからも、台湾籍の者ですら、一般人は島の土を踏むことが許されなかった。なにしろ、中・台国境の最前線なのである。その後、一般の台湾人は入島を許されるようになったが、外国人の渡航は禁止されていた。しかし今では、日本人はもちろん、中国大陸側の人も、観光目的という名目であれば、金門島の入島に支障はない。ただし、台湾本島から200キロも離れた島に、高い旅費を払って、わざわざやってくる観光客は少ない。それに対して、中国からならば日帰りでも充分に小旅行が楽しめる場所なので、大陸側からの観光客の多さは目立っている。

の金門島への旅で、わたしの一番の思い出を語るには、少しばかり歴史背景に触れなければならない。

第二次大戦後、金門島の領有権を主張する中国は、1958年8月23日から10月5日にかけて、厦門の丘の上から対岸の金門島に向けて、集中的な砲撃戦を行った。中国側では「金門砲戦」、台湾側では「823砲戦」と呼ばれる砲弾射撃である。資料によれば、戦闘開始後、わずか2時間のうちに4万発、初日に5万7千発の砲弾が島に打ち込まれたという。金門島側の死者は、島民と兵隊を合わせて、440名以上であった。

中国人民共和国側からの砲弾攻撃のあり方は、その後の国際情勢を反映して変化した。その後も砲撃は続いたが、やがて砲撃は月・水・金曜に限られ、標的も島民に無害な地域に限られるようになった。しかし、儀式的なものになったとはいえ、その砲撃は実に21年間も継続したのである。島内には47万発と言われる大量の砲弾の破片が残されることとなった。

そして、時代は変わった。現在、中・台両岸からの訪問が可能となった金門島は、建て前としては両国の「親善の島」であり、「友好の絆」でもある。町中には多数の中国人観光客と、台湾本島からの観光客の姿がある。その一方で、現在も政治体制の建て前は変わっていない。台湾政府は金門島が自国の一部であると主張するが、中国側も金門島を自国の一部であるとする姿勢でいる。島には、台湾軍の軍服に身を包んだ兵士たちの姿がそこここに見られる。

門島の特産品の一つに、「金門包丁(金門菜刀)」と呼ばれる庖丁がある。住民の中に、着弾した砲弾の破片や不発弾を集め、その硬質の鋼を利用して包丁を作り、それを島の特産品として売り出した者がいたのだ。かつて島に着弾した大量の砲弾の破片は、今や島の貴重な鉱物資源となっている。わたしはそれを地下資源ならぬ、空中からの「飛来資源」と呼ぶことにした。史上初の種類の資源である。

砲弾破片の利用は、今では包丁に留まらない。ナイフから鎌、鉈の類までが取りそろえられ、中国からの観光客にとっても格好の観光土産となっている。それだけではない。現在では、台湾に門戸を開いた中国側の町、厦門の目抜き通りにも、金門名産「金門菜刀」を揃えた立派な店が軒を並べている。すっかり形を変えてはいるが、まさに砲弾の里帰りである。これも、武器の平和利用の一つのかたちと言えるだろうか。いずれにせよ、どのような苦境の中にもチャンスを見出す者がいるのだ。

金門島の街で、薄暗い包丁店に入ると、立派な中華包丁を並べた部屋の商品棚の脇の土間に、砲弾の残骸が無造作に積まれていた。金門包丁の切れ味を見せてくれた店主に、わたしは思わず、「中国人はすごいですね」と言ってしまったが、それは土地の人の創造力をほめたのか、あるいは、たくましい商魂に少々あきれたのか、自分ですらその意味は不明であった。

西江雅之「何処に行っても地球は我が家」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。