何処に行っても地球は我が家

第2章 東アフリカ《キルワを訪ねる》

2000年代に入る頃、わたしは、東アフリカの“キルワ(Kilwa)”と呼ばれる場所を訪ねた。と言っても、その土地の名前を知っている人は、よほどのアフリカ通(つう)か、昔のインド洋交易に関心を持つ東洋史の専門家くらいなものだろう。しかし、キルワは、ユネスコの世界遺産にも指定されており、12~14世紀にかけては世界の中心地ともされた、歴史的に重要な場所なのである。

もっとも、わたしがその世界遺産を訪れた時は、案内図もなければ、案内人もいなかった。その土地に何日も滞在したが、近くの小さな村の住民の姿以外には、他所者の姿を見たこともなかった。

アフリカ大陸の東側沿岸部には、長さ千数百キロにわたって、“スワヒリ”と呼ばれている地域が広がっている。“スワヒリ”というのは、“スワヒリ語”という言語名にもなっている。“沿岸の”という意味で、アラビア語からスワヒリ語に入った外来語である。

現在の国際情勢から言えば、スワヒリと呼ばれる土地には、ソマリア、ケニア、タンザニア、モザンビーク南部、ジンバブウェが含まれる。それらの国々の政治的立場は様々だが、沿岸部がイスラム圏であるという点では共通している。野生動物の天国である大草原やジャングルというアフリカのイメージからは、ほど遠い場所である。沿岸部に点在する村や町に住む住民の目は、内陸の広大なサバンナにではなくて、インド洋や、その彼方にあるアラビアやインドに向いている。生活の基盤はイスラム教であり、生活の主な糧はインド洋との交易から得ている。 キルワは、タンザニアの中南部沿岸にある小さな村々と、その沖に浮かぶ小さな島々からなる。現在は、静かというよりは、島内の森の中にひっそりと沈んだ場所である。

繁栄を誇っていたのは、風まかせの帆船がインド洋を往来していた時代である。かつて、キルワは、インド洋の商業ルートの代表的な拠点であった。かつてキルワに関連した土地を挙げれば、まず南のジンバブウェ、モザンビーク、北隣りのケニア、さらに北上してソマリアを経て東に向かい、アラビア半島、そしてインドとなる。そして、キルワとインドを結ぶ交易路は、さらにインドから中国に続く道にもつながっていた。また、紅海の入り口を西に入った航路は地中海につながっており、地中海沿岸に面した国々もキルワとの交易の恩恵に浴していた。

交易を通して、キルワは、アフリカ大陸南部の貴重な品々を世界各地に送り続けた。代表的な商品は、まず、ジンバブウェの金である。象牙、鼈甲、香料など、東アフリカを代表する品々が取引された。取引項目の中には、奴隷とされた人間も含まれていた。

キルワの繁栄は、大陸の南から北上してきたポルトガルの到来まで続いていた。言うまでもなく、ポルトガルは、西アフリカの沿岸部を南下し、南アフリカの南端から方向を北に向け、東アフリカ沿岸部を北上し、行く先をアジアに定めていたのである。その間には、東アフリカ沿岸部の諸島には、政治勢力の交代もあり、数々の争いもあった。ポルトガルの到来、または襲来によって、1500年代に入る頃には、キルワは崩壊した。そして、キルワは、その残骸を遺跡として今に残すだけとなったのである。
ルワ遺跡の存在が、東アフリカやアラブ、インドの外側の世界、主に西欧社会に知られるようになったのは、1823年以降のことである。海図作成が目的でキルワ島に停泊したイギリス海軍の帆船、バラクーダ号の乗組員たちが、キルワ島に上陸し、大規模な廃墟を発見したのである。その廃墟は、かつて、そこに壮麗な石造都市が存在したことを伺わせた。発見当時、遺跡の近くで暮らす人びとの生活状況から見て、そのような本格的な石造都市が、本当に彼らの先祖であるアフリカ人が建設したものであるのか、専門家ではない船員たちに信じられなかったのも無理はない。そうした思いが、この石造都市の建設者について、さまざまな憶測を呼ぶことにもなったのである。

1960年代に入り、イギリスの考古学者たちによる本格的な調査が始まった。石造りの立派なモスクは、アラブ諸国に見られるものとは様式が異なっている。それは、幾つものドーム型の屋根に覆われた、アフリカ式の見事な建造物であった。都市の中に点々と散る石造建造物、珊瑚を積んで作られた住居の壁、整然とはり巡らされた道など、調査は驚くべき発見をもたらした。廃墟の中からは、中国製の陶器、アラブ、ローマ、中国などの貨幣、そしてキルワで鋳造された銅貨、ガラス玉の装飾品などが、次々に掘り出された。

さらに、別の土地からは『キルワ年代記』と題された文書も発見された。キルワに関しては、遺物からではなくて、文献からも、その歴史背景がつかめるということにもなった。現在、『キルワ年代記』について残されているのは写しのみで、原本は残されていない。写しは、キルワの時代から少し後のものとなるが、二種類の文書が存在し、その一つはアラビア語で、他の一つはポルトガル語訳のものである。

ここまで、キルワという土地に関して、ごく大ざっぱな歴史背景を話してきた。その理由は、背景知識が無くては、わたしがここで書こうとしているキルワへの旅の話が、単にアフリカの寂しい村を訪ね、森の中で瓦礫の山と化した昔の家屋を見に行っただけと思われかねないからである。
にかく、その地域への関心を長年持っていたわたしは、いつか、その土地を訪れてみようという気持を強く持っていた。実際の目的は、言語と歴史の調査の旅である。しかし、夢のような想いだけでは何にもならない。そんな時に、偶然にある所からの援助が出て、わたしはタンザニアの沿岸にあるザンジバル島に行く機会を得た。そうなれば、そこから何とかしてキルワに行ってみようという気持ちが強く出てきた。

さて、ここからはキルワへの旅の話だ。まず、ザンジバル島内でキルワへの飛行機探しである。勿論、定期便などというものはない。小型機を所有する事務所を探し出し、事務所を訪ね、飛行機を予約する。同行者が誰かほかにいれば、運賃も安くできて大いに助かるのだが、そうは都合よくいかない。結局は、チャーター機での実施となった。

ちっぽけな飛行機は、ザンジバル空港を飛び立つと、しばらくインド洋上を南下して飛び、やがて右の方向に舵をとり、大陸内に入った。小型機の眼下には、絵に描いた曲線のように曲がりくねった川筋が幾本も見えてきた。飛行機は、その上をゆっくりと超えていく。そして、無事に着陸だ。キルワの大陸側には空港がある。そこは数十メートルの長さの細い滑走路が一本見えるだけの広い原っぱだ。もちろん、人影などは一切ない。

地図を広げてみると、その滑走路の近くには村へと続く道が一本あるようだ。村まで一キロ程度の距離だろう。そこで、わたしはパイロットに話しかけた。「ここから村まで、このまま飛行機で乗りつけていただけませんか」。おそらく、前代未聞の注文だったに違いない。

パイロットは、わたしの意外な申し出に、当然、少々戸惑いの表情を見せた。しかし、それもまた面白いとでも思ったのか、結局は、飛行機で村まで乗り着けるという案に賛成してくれた。

しかし、飛行機は、すんなりと滑走路から道路まで出られるというのではない。滑走路を外れた所からは、意外に背が高い雑草に覆われた土地が広がっている。車輪が草を巻き込まないようにと注意しながら、ソロソロと機体を進める。そして、ようやく道に出ると、村に向けて一気に直進である。

途中、路上を歩く村人に追いつく。土ぼこりのする田舎道である。いつものように、道の真ん中を呑気に歩いていたのだろう。そういう所に、突然、背後から飛行機が路上を走って迫って来たのだ。その村人はワッと、手を大げさに挙げながら、驚いた表情で道の脇に飛退いた。こちらも、「ごめん、ごめん」と言いながら、窓越しに手をふった。

村の入り口に近づくと、食堂と宿を兼ねた小さな平屋の建物が見えてきた。「ここで結構です。大変助かった」と、パイロットに感謝の言葉を告げると、彼は機首を向け直し、空港に向けてソロソロと戻って行った。

宿では、居合せた数人の客の歓迎を受けた。刺激がない村の生活の中に、突然、日本人が飛行機で乗りつけてきた。とりあえず、その記念的な出来事を祝って、ビールで乾杯となる。ここはイスラム圏のはずが、なぜか、人びとは昼間から酒を飲むことも普通なのである。

翌朝、近くの役所に向かった。キルワ沿岸にはいくつかの小島がある。そのうち、キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラと呼ばれる二島が代表的な島で、そこがわたしの調査目的地なのである。そして、その島々に入るには、政府の許可が必要なのだ。

役所は、その土地としては大きな規模の、都会並みの外形をした建物である。入島許可を取るための事務室に入ると、立派な体格をした五十代の男性が出迎えてくれた。名前を尋ねると“チドリ”さんだという。「チドリというのは、日本でよく見る、群れをなして飛ぶ鳥の名前ですよ。縁起物の図柄にもなっています」と、わたしは、遺跡の話などはそっちのけで、千鳥の絵を紙に描いたり、ついでに日本の鶴の話などをしたりしているうちに、たがいにすっかり打ちとけて、島の遺跡訪問には一緒に行こうということに、話は落ち着いた。

役所からの帰り道、マングローブでとれた大きなカニを何匹も籠に入れた男に出くわした。ちょうどよい、夕食はそれを肴にビールでも飲もう、と決めた。値引き交渉に数分の会話を費やした後、大き目のカニを二匹買い求めた。そして、カニを宿に持ち帰ってから、宿で働く女性たちに料理を頼んでおいた。

ところが、それが思わぬ失敗であった。夕食時に出てきたのは、なんと、食べる所などまるで残されていないカニの甲羅の部分だけだった。カニには脚があるはずだが、美味しいところは全部、料理を頼んでおいた女性たちが、きれいに食べてしまっていたのだ。そして、平然として愛想よく、カニの甲羅を二枚重ねにして皿に載せ、食卓に運んできたのだった。わたしの方も、少々がっかりしたとはいえ、まあこんなこともあるかと、笑って答えた。多少のことは、「ハクナ・マタタ(問題ない)」なのである。
朝、チドリさんがモーターボートを準備しておいてくれた。さて出発という段になると、その場に数人の男女が、湧き出したかのように姿を現した。わたし達のボートに便乗して、無料で島に渡りたいという人びとなのだ。 皆をボートに乗せ、まず、最初の島、キルワ・キシワニに向かう。30分ほどで、島のはずれに巨大な城のような建物が見えてきた。辺りの環境には不似合いな、堂々たる容姿である。“ゲレザ”と呼ばれる建造物だ。1800年代に建設されたもので、キルワの遺跡の中では最も新しい。そこは、比較的短期間であるが、砦として使われたらしい。なお、キルワでは“ゲレザ”は“砦”を意味するが、本来は“教会”という意味のポルトガル語からの外来語である。ちなみに、現在のスワヒリ語では、ゲレザは“監獄”という意味の単語である。

ボートがゲレザから数十メートルのところまで近づくと、チドリさんが、「ここからはボートから降りて、海を歩きます」と言った。ボートの便乗者たちは、そのようなことには慣れている。軽やかに海面に飛び降りると、わたしには目もくれず、挨拶もせずに、さっさと陸地を目指して歩き始めた。

わたしも浜辺まで数十メートルの距離を、深い所では腰の辺りまで海中につかって、ゆっくり歩を進める。少し前進し、海面が膝の辺りまでになってから、ふと足もとを見て驚いた。泥のなかに埋もれたわたしの足のそばを、何百、何千という大きなシャコが蠢(うごめ)いていたのである。柔らかい泥の中で、わたしの足裏から這い出そうとしているシャコの感触がわかる。わたしも、寿司屋に行けば、シャコを食べたくなることがある。しかし、このようにシャコの大群に取り囲まれると、食欲どころではない。なんとか、このシャコ地獄から逃げ出したいという思いに駆られる。

シャコ地獄からやっと抜け出して、浜辺に辿り着き、人気のない村を通り越し、キルワ遺跡に入る。目の前に展開された遺跡群は、想像していたより、はるかに立派なものだった。堂々たる規模の建造物のいくつかは、何百年も熱帯の大気の中に放置されたままのはずだが、それほど大きな損傷を受けてはいない。幾つものドームが連続する大モスク、石造の住居、整った道、どれを見ても当時のキルワの繁栄が感じられる。わたしは考古学では素人だが、一つひとつの建造物の記録をとることに熱中する。その間、チドリさんは、太い倒木の上にゴロリと身を横たえて、いびきをかきながら気持よさそうに寝入っていた。

取りあえず、第1回目のキルワ・キシワニでの下調査を終え、次のソンゴ・ムナラ島に向かう。そこには、ささやかな桟橋が用意されていて、ボートから海中に飛び降りずにすんだ。しかし、上陸して遺跡に向かう細い通路は、文字通りにジャングルの中である。生い茂る木々の枝で陽の光りを遮られた通路は、ところどころ小川のようになっていて、膝より上まで水につかりながら歩を進めた。

辿り着いたのは、わたし達のほかには誰もいない静かな遺跡である。石の壁を割って、堅そうな幹の木々が、力強く枝を広げている。過去の繁栄の時代には、この場所に大勢の人びとが行き交い、明るい話し声が絶えなかったはずである。崩れかけている石壁を作った石を一つひとつ運んだ人、それを運ばせた人、その石壁の中に暮らしていた人、その家族。かつて、この場所にあったはずの人間の暮らしに思いをめぐらせていると、歴史の重みというものが、不思議な力で心に迫ってくる。
り道は、宿がある村まで、2時間ほどかけてボートを走らせた。夜の食堂の様子は、前日と変わることがない。イスラム教徒であるが、数人の男女が同じ席に集まり、簡素な食事をし、ビールを飲み、他愛のない会話を続ける。その後の数日、キルワでのわたしの行動も彼らと同じであった。

わずか数日の滞在ではあったが、村のあちこちに顔を出していると、知り合いになる人びとも増えた。最初に親しくなったのは、宿の前の小さな酒場の女主人である。体重が100キロを軽く超しそうな、巨大な体格の女性である。イスラム教徒なのだが、朝からビールを飲んでいる。丸い顔に笑いを絶やさず、人に媚びることはないが、極めて愛想がよい。

ある夜、その女主人に、村はずれにある学校らしき建物に連れて行ってもらった。村人の踊りに誘ってくれたのだ。人気がない村のはずれに、数十人は入りそうな講堂のような建物があった。近寄ると、東アフリカの伝統的な音楽が、騒音とも言える響きをともなって、外に溢れ出ていた。

広い部屋の中では、何かに憑かれたかのように、陶酔の表情を浮かべた男女が、音楽に合わせて踊っていた。舞台のうえで大声で歌う女性歌手に、人びとが踊りながら近づいてゆく。そして、その女性の豊かな胸と、それをおおう薄手な服との間に、次々に、幾枚かの紙幣をねじ込んでゆくのだ。暗い照明の中で、歌い手の女性は表情を変えずに、大声で歌い続けた。踊りは、夜中まで休み無しに続いた。

宿に帰る道すがら、騒音がやっと遠ざかると、頭上には見事な星空が広がっていた。薄明かりの中に、周辺の木々が巨大な黒い影となって浮かんでいた。

キルワを離れる日がきた。わたしは、例の飛行場に確かに迎えの飛行機が来ているのか、少々気になった。もし、来ていなければ、明日という日もある。そんな気持で、例の飲み屋の女主人に別れの挨拶に行くと、「何、日本に帰る?それなら、わたしも連れて行って」と言い出した。それは無理な話である。わたしは彼女の日本での生活がどうのこうのということ以前に、「その立派な体では、迎えの小型機に乗れるかどうかが疑問だよ。」と冗談を言った。

役人のチドリさんが、わざわざ宿まで見送りにやって来た。宿の人びとも温かく見送ってくれた。さて、出発だ。今度は、数キロの道のりを歩かねばならない。いくらなんでも、迎えの飛行機が、この宿まで道路を走って迎えにきてくれるはずはないからだ。

西江雅之「何処に行っても地球は我が家」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。