「食」のエッセイ あの時あの味

真摯なまなざしで史実を捉える小説家 中村彰彦氏が、「味」について語ります。

高遠そばの旅

 平成7年(1995)1月に中公新書『保科正之 徳川家を支えた会津藩主』を出版したとき、強く反応して下さったのは長野県伊那郡高遠町(現、伊那市)の皆さんであった。徳川二代将軍秀忠の庶子として生まれた正之(幼名幸松こうまつ )は、信州高遠3万石の藩主保科正光に養子入りし、高遠で育った。当時の高遠町長北原三平さんたちはそれをよくご存じだったため、私に正之についての講演を依頼してきたのだ。
 その講演は同年11月25日におこなったが、町役場の方々と会食した際、つぎのような質問を受けた。
「会津からおいでになる皆さんは『高遠そばはどこで食べられるか』とよく質問なさるんですが、高遠そばって何のことですか」
 正之は高遠藩主から山形20万石の藩主に出世し、さらに会津23万石に封じられて会津藩初代藩主となった。会津藩士には高遠から供をした家来も少なくないので、今も父祖の地を知りたくて高遠を訪ねる人々がいるのだ。
 私は答えた。
「正之の時代、まだ煮干しは信州に伝わっていなかったので、高遠では焼味噌を大根おろしに溶いたものを出汁だしじるにしてそばをすすっていました。高遠、山形、会津と移った人の子孫たちは、今もその味を懐しく感じるのでしょう。会津若松のそば屋に入ると、かならず『高遠そば』というメニューがあります。会津から来た人は、本場の『高遠そば』の味が知りたくてそう質問するんでしょうね」
 このやりとりではっきりしたのは、高遠町ではすでに「高遠そば」の出汁の作り方が忘れられている、という事実であった。
 ならば会津のそば打ち名人を高遠町に招き、あれこれ講習してもらえばよい。そこで指名された会津の名店桐屋の御主人がめでたく「高遠そば」を里帰りさせてくれたので、今では高遠町には驚くほどたくさんのそば屋が店びらきしている。
 なお高遠のそば打ち技術は、正之が山形藩主だった時代には「寒ざらしそば」に結実したという。かれが会津へ移って以降は、そば懐石その他の多彩なそば文化が花ひらいた。
 「高遠そば」も長い旅をしたわけだが、私の好みはそこからさらに改良を加えられた十割そば。特に桐屋の頑固そばと権現ごんげんそばは十割そばの横綱であり、一口ごとにそばの旨味うまみが凝縮しているのが感じられて何度食べても飽きない。
 問題はただひとつ、帰京して平均点程度のそばをたぐると桐屋の抜群の味が舌に蘇り、目の前の品にがっかりしてしまうケースがつづくことだ。

中村彰彦

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)氏

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。
1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。
1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。
近著に『会津の怪談』『花ならば花咲かん 会津藩家老・田中玄宰』『戦国はるかなれど 堀尾吉晴の生涯』『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』などがある。
幕末維新期の群像を描いた作品が多い。