「食」のエッセイ あの時あの味

真摯なまなざしで史実を捉える小説家 中村彰彦氏が、「味」について語ります。

雄鶏とアレルギー

 物心ついたころには、草深い栃木県栃木市片柳町にあった県立家畜保健所付属の官舎で暮らしていた。父が栃木県採用の獣医師として、同所の配属となっていたためだ。
 周辺は純農村で、幼稚園などはない。だから昭和24年(1949)生まれの私は未就学児童の期間が長く、保健所の門の外にひろがる田んぼの畔道や農道、水路で虫捕り、魚取り、ザリガニ捕りなどをして幼年時代を存分に楽しんだ。文字はかなり早く読めるようになったので出入りの書店に物語を注文して読みふけり、近所に同年代の遊び相手がいないことを苦痛に感じたことは一切なかった。
 門前の道の先にはやはり県立の農業会館があり、住みこみのおじさん夫婦はシロという名の大きくておとなしい犬と鶏7、8羽を飼っていた。時々シロと遊びにゆく私は、鶏小屋の中をのぞくうち、鶏に大小の別があることに気づいた。おじさんに聞くと、一羽だけいる軍鶏しゃものように大形なのが雄鶏おんどり、ほかの小柄なのは雌鶏めんどりだという。
 思うにおじさん夫婦は、戦後の貧しかった時代のこととて、有精卵を採るかひなをふやすかするために雄鶏を必要としていたのだろう。雄鶏は赤い鶏冠とさか も大きくて蹴爪が鋭く、私は鶏小屋の前にしゃがみこんでその雄姿に見惚れることが多かった。
 ところが数日間シロとは遊ばずにいたある日、夕食に初めての食感の肉が出た。肉質がやわらかく、味も淡白で口に合う。
「これは何の肉?」
 母に問うと、驚愕すべき答えが返ってきた。
「農業会館のおじさん、おばさんから頂いた鶏肉よ。あの雄鶏、雌の産む卵を食べる癖がついて飼っておけなくなったんですって」
「えっ!」
 私は血の気を失い、食欲もまったく消えてしまった。そして少しするとからだを腫れぼったく感じ、熱も出てきた。私は鶏肉にアレルギー反応を示し、にわかに 蕁麻疹じんましんを発症したのだ。
 私はペニシリンも受けつけない特異体質なので、自分には鶏肉もアレルゲンなのだろうと思い、父母もそう考えた。そのため私は、それから中学2年の7月まで一切鶏肉を食べずに過ごした。
 ところがその8月、東京オリンピックの前年に私は父の転職に従って愛知県知多郡大高町(今日の名古屋市緑区大高町)へ転居し、大高中学校に通学しはじめた。この町は肉屋とはまた別に「かしわ屋」と呼ばれる鶏肉専門店がある土地柄で、新しくできた友人I君のお母さんも「かしわ屋」でパートをしていた。
 そんな雰囲気に影響されたのか、ある日、母も鶏肉を買ってきて照り焼きにして出してくれた。食べ盛りの時代を迎えていた私はおいしく食べてしまってから、しまった、と思った。それから1、2時間、私はまた全身が蕁麻疹で腫れ上がるのではないかと不安で、内部感覚に耳を澄ます思いだった。しかし、ありがたいことに何の異変も生じなかった。
 この一連の出来事からわかったのは、鶏肉は私にとってアレルゲンではない、ということだった。幼年期の私は農業会館の雄鶏をシロとおなじく自分のペットのように感じていたため、その肉を出された精神的ショックから蕁麻疹を発症してしまったのだろう。
 以来、鶏肉は私の好物となり、昨年末に名古屋で講演をした夜はI君と手羽先の唐揚げをたらふく食べてきた。

中村彰彦

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)氏

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。
1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。
1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。
近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』 などがある。
幕末維新期の群像を描いた作品が多い。