「食」のエッセイ 新・映画と食の深いつながり

様々な作品に挑みつづける映画監督 東 陽一氏が映画と深いつながりのある「食」について語ります。

第10章 スプーンから少し、そして⋯⋯

インターネットで、ある人が「自分にとっては運命的な映画なので、今でも冷静に見られないし、うまく語れない」と書き込んでいる映画をご紹介します。
「うまく語れない」と言いながら、その人はやはり書かずにいられずに書いていますが、わたしの気持ちもそれに似ています。素晴らしい映画だが、それについて語ることは簡単ではない。
なぜ簡単でないか、その理由だけはいとも簡単です。それは、友情や愛情という、人間にとっていちばん基本的で繊細な「こころ」の動きについて、これ以上はないと思えるほど「繊細」に描かれているからです。繊細さについて、繊細に語ることはとてもむずかしい。映画の題名は、アラン・パーカー監督『バーディ』(84年)です。

トップカットは金網の入ったガラス窓。その高い窓を、じっと見上げて坐っている青年。これが「バーディ」(マシュー・モディ-ン)です。刑務所の独房のように見えるけど、ここは、鍵のかかった閉鎖病室です。
一方、遠く離れた別の病院で、顏の半分ほどを包帯された青年が、医師の診察を受けている。これが「アル」(ニコラス・ケイジ)。彼はベトナムの戦場で、顏面に大きな火傷を負って皮膚移植を受け、顏の半分を包帯したまま、この日、一時的に退院するのです。やはり戦場で心に大きな傷を負って入院しているバーディに会うため、トランクひとつで列車に乗る。「乖離性障害」と院長に診断され、固く閉じてしまったバーディの心が、かつての親友になら扉を開くことがあるかもしれない、と期待されたからです。
映画は始まりから、この「現在」と、南フィラデルフィアの高校生時代の二人の「過去」が、自由に交錯していきます。注目すべきなのは、この高校生時代の描写が、ありふれた「回想シーン」ではなく、現在と同じような厚みをもったもうひとつの「現在」として、独立して進行することです。

田舎町の高校生二人は親友で、でも実際には、「鳥」に対して異常なほどの愛情をもつバーディにアルがひきずりまわされる、というような毎日です。バーディは、アルのように女の子に興味を示さず、とにかく鳥に夢中で、自分でも空を飛びたくてたまらず、ある日、アルがペダルを漕ぐ自転車のハンドルから、手作りの翼で飛び立ったりするのです(映画では10メートルほど滑空するけれど、これは監督のマジックで、この翼では絶対に飛べないので、真似しないように!)。
高校を卒業し、アルが先に兵士となって軍隊に入るころは、バーディは一羽のメスのカナリアに「恋」をして、「彼女」をパータと名付け、共に暮らすようになっています。
そして、平行して描かれる現在。閉鎖病室の夜、窓の外に小鳥の群れが乱舞する幻想を見たりしながら、バーディがつぶやく言葉は、
「今のぼくには夢も現実も同じものだ。ただ、夢の中ではぼくを抑圧するものはない。死んで鳥に生まれ変わりたい」
などというものです。「精神異常」なのではなく、ただ、繊細すぎるほど鋭敏な心が、ひどく傷ついて病んでいるのです。
病室で、いつも変な形に歪んだ姿で坐り込んだバーディは、再会したアルが話しかけてもまったく反応を示さない。小柄な看護婦ハンナ(カレン・ヤング)がバーディに食事をさせにやってきて、「なぜか当番兵では駄目で、わたしじゃないといけないの」と言うような状態がつづく。アルは「おれは壁に向かって話してんのか」と嘆く日々が過ぎていく。

ところが、ある日、食事を持ってきたハンナに代わってアルが、スプーンをバーディの口元に差し出すと、バーディは、ハンバーグのかけらをつぶしたような、いかにも不味そうなその食べ物を見下ろしたあと、じっとアルの顏を見つめながら、ゆっくり口を開けるのです。ひと口、そしてもうひと口⋯。
ハンナが驚くのは当然だけれど、観客には、これは「スプーンをぼくの口元に近づけてくるのは当番兵でなく、かつての親友アルだとぼくにはわかってるよ」、と信号を送っているように見えます。「信頼する人間が差し出すスプーンでなければ、決して食べ物を口に入れるわけにいかない」という、極限状態の心の動きが見えるようなシーンです。
それでも、バーディの沈黙はつづく。米軍の大佐でもある院長は、もう諦めてお前は元の病院に帰れ、と命じます。もう少しだけ、とアルは残る。そう言いながらも次第に絶望的になってくるアルは、ある日、病室のベッドにもたれて胸にバーディを抱き、長い嘆きの言葉を吐き続けます。「俺はいま、捨てられた犬の気分だ」「俺はもうお前と一緒にここに隠れることにする」などなど⋯。
すると不意に、バーディが口を開いて、
「アル、君は時々デタラメを言うね」
一瞬、アルは自分の耳を疑うけれど、たちまち狂喜して親友を抱き起こし、大声で「こいつがしゃべった!」と騒ぎたてる。ところが、騒ぎを聞きつけて院長がやってくると、バーディはまた口を閉じてしまう。院長が看護士たちを呼びに行く。なぜしゃべらないんだ、と怒るアルに、バーディが答えて、
「ぼくには彼と話すことが何もないんだ」
と言うのです。
やってきた看護士たちを殴り倒し、二人は階段を上に逃げる。屋上に着いて扉を閉じたアルが振り返ると、バーディは屋上の端に立ち、鳥のように、両手を空に広げている。
「やめろ!」
叫ぶアルの声を無視して、バーディは⋯。

このあとを書くのは、ルール違反になると思います。またこんな紹介文だけで、この映画の面白さを充分に伝えることはできません。興味のある人は、ぜひDVDで全体をご覧ください。決して、このあとに不幸な結末が待っているわけではない。逆に、たいていの人はあっと驚き、笑いだすに決まっています。それだけを書き足して、この映画の紹介を終わることにします。
ちなみに、物語の途中、病棟の隅っこで、看護婦ハンナとアルの唇があわや触れ合いそうになる、その微妙なラブシーンが、また特別に美しく、繊細に描かれています。

東陽一

著者:東 陽一(ひがし・よういち)氏

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。
代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。
2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。