「食」のエッセイ 新・映画と食の深いつながり

様々な作品に挑みつづける映画監督 東 陽一氏が映画と深いつながりのある「食」について語ります。

第8章 「食べる」ことと「食べていく」こと

アラン・ドロンと言っても、今の若い人たちはピンとこないでしょうが、かつて『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督・1960)などで世界的に知られた大俳優です。実は、わたしはそのムッシュ・ドロンと、映画をめぐって対談をしたことがあるのです。時は1980年代半ばころ、アラン・ドロンを起用して作った日本車のコマーシャル撮影が終わった、その直後のパリでのことでした。
通訳の人と三人で、小一時間おしゃべりしました。途中「おれの出演作で一番いいと思うのは何だ」と聞かれたので、「いい映画は多いけど、一番といえばヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1960)でしょうね」と答えると、ムッシュはただちに「ノーン!」と叫びました。「何が一番いいとご自分ではお考えですか」と聞くと、またも即座に「『サムライ』だよ!」という答えでした。それで、面倒な議論になってはまずいと思い、話題を変えました。

この映画『若者のすべて』(原題『ロッコとその兄弟』)には、はじめと終り近くの二度、ホームパーティの場面が出てきます。そしてなぜか二回とも、笑い声に満ちた楽しいパーティの終りころ、重苦しい場面がやってくるのです。一度目は、南イタリアの貧しい村から大都会ミラノに着いた母と四人の子どもたちが、すでにそこで生活している長兄のビンチェを捜し当てると、長男は婚約パーティの真っ最中。はじめは歓迎されるけど、やがて「この家に住みつく気か」と言われ、未来の花嫁の母親と大喧嘩になってしまう。
映画の終り近くの、隣近所まで巻き込んだ大ホーム・パーティは、三男のロッコ(アラン・ドロン)がボクシングの試合に勝って金を稼いだお祝いです。ところがここに一人、パーティに参加していない人間がいる。それを気にした母親が、耳を澄まして呼び鈴が鳴るのを待っている。呼び鈴の一度目は空耳だったが、二度目のベルで母親が開いた扉の向こうに、首うなだれた次男シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)が立っている。やがて家中に叫び声がひびき渡り、幸福なパーティが不幸な結末を迎えてしまう。
この映画では、二つのパーティを途中に挟んで、一人の母と五人の息子たちそれぞれの、都会での生活が描かれていきます。そして最後にわかるのは、この作品は、皆で飲み食いするパーティのような「食べる」ことだけでなく、一人ひとりが「生きていける」=「職を得て生活できる」、つまり「食べていける」ことの喜びとその困難の両方にまたがって、きめ細かく描いている、ということです。

長男はすでに仕事を得て結婚し、子どもが生れる。四男は苦学して自動車会社アルファ・ロメオの工場労働者になる。この二人とまだ少年の五男ルーカには、大きな問題はない。映画の中盤から物語の中心となるのは、次男のシモーネと三男のロッコです。そこに一人の女、金に困ると体を売ったりもするが魅力的なナディア(アニー・ジラルド)がからんで、いろいろな問題が起こってくる。
ボクサーとして注目を浴びはじめた次男シモーネは、一度関係をもったナディアにのめり込んでいくが、ナディアにとっては多くの男の一人にすぎない。しかし三男のロッコは、その無垢な人格の魅力のせいでナディアを純な気持ちにさせ、二人は恋人同士になっていく。それを知ったシモーネは、悪友たちを巻き込んでナディアを捕らえ、ロッコの目の前で彼女を犯す。
しかし、シモーネが選んだボクサーという仕事は、会社づとめのようにはいきません。ボクシングはいわゆる「ハングリースポーツ」の代表格と言われ、その意味は「逆境で培われた強い精神力を要求されるスポーツ」とされます(「大辞林」その他)。「逆境」と強調されることに特別な意味がありそうですが、「負けないボクサー」をつづけることがいかに難しいかは、素人にも想像できるところです。シモーネの全盛時代は早く終り、やがて落ち目となって、それこそ「食べていく」ことが難しい境遇に追いやられていく。代わりに、他のアルバイトからボクサーに転向した弟ロッコが、注目の新人として評判になる。弟への称賛と嫉妬の相剋の中で、シモーネの心は次第にゆがんでいく。

でも、かつて恋人ロッコの目の前でこのシモーネに犯されたナディアは、犯人をただ憎んでいるのではなく、心の底の方で、自分と同じような、汚れた水の中にしか住めない生き物だと直感しているようです。この、シモーネとナディアとの間に渦巻く「憎悪」と「愛欲」の混じり合った男女の複雑な感情は、実にすさまじいものです。終り近く、郊外の荒れ地でナイフの刃を開いて近づいてくる男を、両手を広げて迎え入れるようにさえ見えるナディアの姿は、たいていの観客の目を、一瞬凍りつかせるはずです。
ナディアが死んだことを確かめたあと、シモーネは、今や「食べていける」男になったロッコの祝勝パーティに参加するため、一族が集まる家の呼び鈴を押す。別室で兄の告白を聞いたロッコの叫び声が、家中に響きわたり、楽しかったパーティの幕が降りる。
シモーネが逮捕されたあと、工場の昼休みに会いにきた五男のルーカ少年に、工場労働者の四男チーロが「いつか、ルーカが故郷に帰る日」の夢を語る。うなずいた少年が歩いて去っていく姿で、映画は終わります。

ムッシュ・ドロンが最も愛する主演映画、ジャン・ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(1967)は、いわゆる「フィルム・ノワール」の一つとしてとても有名です。けれども、人間の関係性を深く描くという意味では、アラン・ドロンが参加した映画の中でこの『若者のすべて』を超えるものはないというのが、今も変わらないわたしの考えです。三男ロッコがいつまで「負けないボクサー」としてやっていけるかどうかわからないけれど、それについては、人生の困難に立ち向かうにも、一人ひとり、別のやり方があるはずだ、と考えるほかにありません。

東陽一

著者:東 陽一(ひがし・よういち)氏

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。
代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。
2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開の予定。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。