「食」のエッセイ 新・映画と食の深いつながり

様々な作品に挑みつづける映画監督 東 陽一氏が映画と深いつながりのある「食」について語ります。

第1章 原節子、茶漬けを食べる (その1)

わたしの生まれ育った関西では、「お茶漬け」といえば、熱い(夏は冷やした)お茶をご飯にかけて、わずかなおかずで喉に流し込むもの、と決まっていました。そのほかに、ご飯の上にいろんな副菜を載せて、そこにお茶でなく、色の薄い「だし汁」をかけて食べるものも「お茶漬け」と呼ばれることを、東京に出てから知りました。でもいまだに「だし汁漬けご飯」を「お茶漬け」と呼ぶことに、少し抵抗があります。まず第一、味覚が決定的に違っています。おのずから、食べるときの状況も「お茶漬け」と「だし汁漬け」では、明らかな区別があるはずです。小津安二郎監督の『麥秋』(51年)の終わり近く、原節子が夜の台所で、わたしの言う「正統派のお茶漬け」を食べるシーンを見て、ここはこれ以外にあるわけがない、と深く納得したものです。

いまのJR横須賀線「北鎌倉駅」近くにある間宮家は、七人家族の大所帯です。当主で東京の病院に勤務する医師、長男の康一(まだ若い笠智衆)と妻史子(三宅邦子)を中心にして、男の子が二人、物書きらしい老いた父(菅井一郎)とその父に寄り添う母(東山千栄子)、これで六人ですが、もうひとり、康一の妹で数え年28歳、未婚で、東京の小さな商社の社長秘書をつとめる紀子(原節子)を加えて、七人暮らしです。

こういう家族構成の場合、いまなら紀子は外に出てひとり暮らし、というところですが、時は戦後まだ五・六年、関東の中流少し上くらいの家族で、康一の弟(紀子の二番目の兄)が召集されたまま帰還せず、生死の消息もない状態で、若い女性が勝手に独り暮らしできるような時代じゃありません。

小津作品に欠かせない共同執筆者として、いつも監督より右側に名前の出る野田高梧、この二人によるシナリオは、短いセリフまで繊細を極めていて、この七人のうちだれ一人、「脇役」または「端役」という枠にはめられて軽く扱われる人間がいない。小学生のふたりの息子たちが、それぞれにしっかりした個性を示し始める様子まで、まことに丁寧に描かれていきます。

でも、この家族の最大の問題はやはり、勤め先の社長(佐野周二)に「売れ残り」とからかわれたりもする(いまなら確実に「パワハラ」ものですが)、紀子の結婚問題です。大和(奈良)の本家から遊びにきた、父周吉の兄で耳の遠い茂吉老人(高堂國典)からも、「もう嫁に行かにゃいけんな」と言われるように、紀子はこの大家族の中でたったひとり、「現在の生活をそのままずっとつづけるのは困る」という状態におかれた人間なのです。

そして、映画の最後の方でわかることですが、実はこの「皆に心配をかける行き遅れ」の彼女が結婚を決意すると同時に、この大家族をささえていた力学的な中心が引き抜かれたことになり、七人家族の構造が崩れるのです。いや、「崩れる」という言い方はおだやかでないので言いなおすと、「いつ結婚してこの家を出ていくのか」と注目されていることで、よくも悪くも家族の緊張が保たれていた状態から、ある日その緊張の原因がふっと消えたので、あとの家族それぞれが、本来あるべき「静かに安定した生活」、両親は奈良に永住すると決め、残る長男夫婦は子どもをふくめた四人の生活の、普通のリズムを獲得した、ということになるでしょうか。

あの人と結婚することにした、と少し前に家族に伝えはしたけど、紀子が自分の心のうちで、ほんとうに新しい生活に入ることを自分で納得したのは、実は彼女が台所で、近くにいる兄嫁史子を横目に見ながら、さらさらとお茶漬けをかきこむ、そのときだったのだとわたしは考えています。

東陽一

著者:東 陽一(ひがし・よういち)氏

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。
代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。
2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。