「食」のエッセイ 映画と食の深いつながり

様々な作品に挑みつづける映画監督 東 陽一氏が映画と深いつながりのある「食」について語ります。

第14章 少し苦い味がする

2012年3月に亡くなった、詩人で思想家の吉本隆明さんが、あるインタビューで、「父」という存在について語った言葉があります。いろいろな発言の中で、特に強い印象で残ったのは、父というものは「これは人間じゃないものであったほうがまだ牧歌的だったんじゃないかという感じが」あるという、謎めいた一言です(『時代の病理』1993年)。

1980年に日本で公開されて大ヒットしたロバート・ベントン監督『クレイマー、クレイマー』を、久しぶりにDVDで見るうち、この吉本さんの謎の言葉を思い出しました。
この映画は、妻ジョアンナ(メリル・ストリープ)が、5歳の息子ビリー(ジャスティン・ヘンリー)を残して突然家を出たあとの、夫テッド(ダスティン・ホフマン)の苦闘を中心に描きますが、わたしには、特に「父」という生き方についての映画に見えます。

70年代後半のニューヨーク。ある夜遅く帰ったテッドにジョアンナが、この家を出ますと宣言し、5歳のビリーを置いて飛び出してしまう。仕事ばかりに熱中して、妻の話に耳を貸さなかったツケが回ってきたわけです。

翌朝、母を探す息子ビリーのために、フレンチトーストを作ることになりますが、まあ、そのひどいこと。料理の経験のない男が、マグカップに卵を割り入れたものだから、食パンは二つに折らないと入らない。ミルクも入れすぎ、おまけに卵の殻も入ってる。皮肉な目で見ている5歳児の目の前で、とうとう半折りのフレンチーストを焦がしてしまう。

それでもビリーは、次第に母のいない生活に慣れますが、息子の世話が大変で父は仕事に熱中できず、会社はクビ、そこへ元妻が、一度は放棄した養育権をとりもどそうと裁判を起こす。ビリーは7歳になっています。

大急ぎで前より給料の安い仕事を見つけ、法廷に出ますが、今は元夫よりも高給取りのジョアンナが、「ビリーには母が必要です」、「私が母親です」と宣言して、むろん結果は「父」の敗北。
母が息子を引き取りにくる朝、父と息子は、協力してフレンチトースト作りにかかります。

父がボウルに卵を割り入れる。かき混ぜるのは息子。父が適量のミルクを入れ、息子がパンを卵に浸し、父が焼く。親子であり、同時に「仲のいい二人の男」にも見えるいいシーンですが、このトーストには、卵の甘さのほかに、別れの悲しみという、少し「苦い味」が混じっているに違いないのです。

ところが、物語はこのあと急展開、ビリーを迎えに来たジョアンナがテッドを階下に呼んで、やはり連れていけない、「ビリーの家はここだから」ということになり、とりあえず、映画はここで終わりになります。

7歳の少年ビリーにとって、これから先どちらと暮らすのが「いくらかはマシ」な生活なのか、誰にもわからない。ただ、息子を置いてその母が去ってからの、「父」の孤独な苦闘を見るうち、頭の中に浮かび上がったのは、吉本さんのあの謎めいた言葉でした。
「父というものは、人間じゃないものであった方が、まだ牧歌的だったんじゃないか」

詩的な直感として、この言葉をつかまえられる気がするけれど、それでも「謎」は残る。だから、これは一人の詩人が、やがては「父」になるだろう青年たちに残した警告として、今は記憶の底に沈めておくのがいい。思い出せば、この言葉は、映画の中のフレンチトーストよりももう少し強く、「苦い味」がするに違いないと、わたしは思っています。

東陽一

著者:東 陽一(ひがし・よういち)氏

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。
代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。
2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。