「食」のエッセイ 映画と食の深いつながり

様々な作品に挑みつづける映画監督 東 陽一氏が映画と深いつながりのある「食」について語ります。

第3章 「めし」-その(2) 女のめし

戦国時代の男のめしが「約束のめし」「覚悟のめし」であるとして、では女のめしはどのようなものでしょうか。『七人の侍』の時代からずっと下って、昭和三十年代の日本の女の「めし」を、今村昌平監督がその最高傑作『赤い殺意』の中で見事に描いています。

春川ますみ演ずる貞子(さだこ)は、夫が出張し、子どもが姑の家に泊めてもらうことになった夜、駅から後をつけてきた男(露口茂)に襲われます。男の目的は金だったようですが、格闘して寝間着が乱れた姿のせいか、乱暴にではないけれど、レイプされます。

男が出て行ったあと、ようやく起き上がった貞子は茫然としたまま、心の中で「死なねば…」とつぶやきますが、ここは東北、その言葉が「スなねば…」と聞こえて、土地の匂いが濃く漂うところがとてもいいのです。風呂場で体を洗い、「スななくては」と心でつぶやき、家の前の土手を走ってくる汽車に飛び込もうとするけれど、果たせません。

夜明け近く、ぼんやりと裏口から入ってきた貞子が、台所に坐りこみますが、ふと立ち上がる。すると、流しに置いたどんぶりに、昨夜の食べ残しのめしが入っているのが目に入る。無意識に手が出て、めしをつまんで口に入れ、またもう一口。するともう止まらなくなって、その冷や飯の上に、これも昨夜の残り物の味噌汁をかけて、ずるずるとすするようにして食べ始めます。漬け物を箸でちょいとつまみ、食べながら心の中に起こる声は、
「どうせ死ぬんだ、(一人息子の)マサルに会ってから死ぬべ」です。

わたしは、この映画も、若いころ何回見たかわからないほど見ましたが、このシーンになるたび、思わず感嘆のため息がでます。だって考えるまでもなく、このせりふは、気持ちとは反対のことを言っているわけです。まだ小学生の子どもに会ったら、その子を残して母親が死ねるわけがありません。

封建時代の武士の妻でもあるまいし、昭和の妻がレイプされたら死なねばならぬ、なんて思い込むことの是非はともかく、貞子はここで、マサルに会ってから死のうと自分で言いながら、本当は、マサルがいるから死ぬわけにいかないのだと言っているのです。「死のう」という言葉が実は「死ぬわけにいかない」という意味で使われていて、それが観客に何の矛盾も感じさせないで成立するという女の言葉の不思議。そんな離れ業をリアリティたっぷりで成立させているのが、このめしのシーンなのです。『七人の侍』で描かれた「覚悟のめし」も素晴らしいけれど、この貞子のめしは、もう名前をつけられない。ここはただ「女のめし」というしかありません。

映画のラストは、これまで「セックスつきの使用人」のようだった彼女が、愛する「おとうちゃん」(西村晃)を逆に支配しはじめるようにさえ見える、実に見事なシーンです。

東陽一

著者:東 陽一(ひがし・よういち)氏

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。
代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。
2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

2009年4月より、京都造形芸術大学映画学科客員教授に就任。