「食」のエッセイ “文化”を食べる人々

第21章 エスニック料理

去に十数回は訪れたことがあるハワイですが、今回は、ほぼ十年ぶりの滞在でした。懐かしのハワイと言うべきですが、町並みや海岸の様子はすっかり変わっていました。

わたしが初めてハワイに行ったのは、1960年の半ばでした。今から半世紀ほど前のことです。ワイキキのビーチからは、ダイヤモンドヘッドが頂上から裾野まできれいに見えました。今、そのビーチ沿いには高層ビルがぎっしりと立ち並び、山はほとんど見えません。海辺の大通りは一日中、車と観光客でごった返しています。場所によっては、日本からの観光客にまぎれて、欧米系の人の姿がポツポツと見えるというほどの場面にも出会います。

六十年代には、わたしが滞在していたハワイ大学構内の宿舎から町に出ても、日本食を出す店にお目にかかる機会は、ほとんどありませんでした。中国系の人が経営する安食堂を覗いてみると、「サイミン」とか「チャプスイ」などという名が目に飛び込んできて、一体、それはどんな物かと気になりました。

宿舎のそばに、日系移民二世の老人が経営している小さな飲み屋がありました。その店にわたしは毎晩のように通い、ビールを飲みながら、老人からサトウキビ畑での過酷な労働や戦争中の日系人の苦労などの話を聞きました。わたしは日本では日本食を食べることがほとんどありませんでしたが、ハワイでは、老人の飲み屋でご飯を食べ味噌汁を飲むという珍しい体験を堪能したのでした。

ハワイに滞在しているのですから、老人に「ポイ」とか「ルアウ」というハワイ人の食べ物のことを尋ねてみましたが、そのような物を口にしたことはないようでした。同じ島に住んでいても、文化が異なる人びとの日常生活には興味がなかったのかも知れません。老人は、日系移民の中に生まれ、日本的な食生活を守って一生を過ごしてきたのでしょう。

かつて、ハワイ人の主食であった「ポイ」というのは、蒸したタロイモを濃い粥(かゆ)状にしたものです。一見したところ、子供の頃に母親に食べさせてもらった片栗粉(かたくりこ)を湯で溶いたものを思い出しました。実際に食べてみると、紫色がかったポイの酸い味は、わたしの口には合いそうもありませんでした。しかし、地面に穴を掘って「イム」と呼ばれる一種のオーヴンを作り、熱した溶岩と「キアウェ」と呼ばれる木の枝、バナナの葉などを入れ、丸ごとの豚を入れて蒸し焼きにした「ルアウ」は最高の味で、そんな料理をいつか自分の家でも作ってみたいと思いました。

たまには、海岸にある一流ホテルのバーに行くこともありました。そんな時は、奮発して「マイタイ」とか、「チチ」という名のカクテルを注文して、店内で実演されるハワイアンやフラダンスなどを楽しみながら、夜のひと時を過ごしたものでした。マイタイやチチはトロピカル・ドリンクです。熱帯向きのすっきりとした、しかしコクのある味で、蒸留酒をベースに作られています。マイタイは、ホワイト・ラムに少量のダーク・ラム、オレンジ・キュラソーを足し、バナナ、オレンジ、レモンのジュースを加え、グラスの縁にはパイナップル、オレンジを薄切りにしたもの、それに小さな花などが添えられています。チチは、ハワイ生まれのカクテルとされています。ウオッカをベースに、パイン・ジュース、ココナツ・ミルクを加え、グラスの縁にはパイナップル、オレンジの薄切りと、小さな花を添えて作ります。両方とも、観光客にはハワイらしさを印象づけるので、大変人気があるカクテルです。

今回、十年ぶりのワイキキ界隈は、どこに行っても大勢の人でごった返しています。店に入れば、どこでも似たような音楽がかかっていて、少々うるさ過ぎます。そのうえに、料理の値段も気安く入れる感じではありません。落ち着ける所がないのです。約一週間の滞在中、幾つかのホテルのバーを覗いてみましたが、かつての落ち着いた雰囲気はなく、懐かしのマイタイやチチを飲みに入ろうという気分にはなりませんでした。結局は、町外れの中華食堂に入り、地元の人びとと一緒に安い餃子や焼肉や焼きソバを食べ、コンビニで買った日本製のビールを宿に持ち帰って飲んで、日を過ごしました。
ノルルの繁華街には、欧米式の料理を出す店の他に、日本、中国、ヴェトナム、タイ、韓国など、様々な国の料理を出す店が見られます。大きなショッピング・センターのフード・コートにでも行けば、そうした料理が簡単に食べられる屋台がずらりと並んでいます。また、店で働いている若者たちの中には、アジアの国々からハワイに働きに来ている者も少なくないようです。今回のハワイ滞在で食べる場所をあれこれと目にするうちに、「エスニック料理」という単語が頭に浮かびました。

日本にも、現在は、外国の料理を食べさせる店が多くあります。その数は、全国でおそらく数万を超すのではないでしょうか。わたしの暮らす東京郊外の町でも、家から半径わずか数百メートル以内の範囲に、定食などを出す日本の普通の食堂のほかに、中華料理、フランス料理、イタリア料理などはもちろん、ネパール料理、タイ料理、ヴェトナム料理、韓国料理、インドネシア料理などが見られるようになりました。また、わたしの知人には都内にアフリカ料理店を開いている人がいたり、なかにはエチオピア料理店からソマリア料理店まで開いた人がいます。そうした店がちゃんと成り立つところが、さすがに東京は大都会であるという気がします。

わたしの身近には、そのような国に実際に行ったことがある人が少なくありません。そこで、何処かの店に入っても、ここの料理は本場のものとは味が違う、やはりこうしたものは本場で食べなければだめだなどと、いろいろな批評をする人も少なくありません。しかし、本場そのものの料理を日本の店で出したならば、その味が受け付けられない客は多いはずです。それに、エスニック料理と呼ばれているものの多くは、本国では雑踏ひしめく路上の屋台などで、安い値段で売られている大衆食の類なので、もし同じやり方で料理したものを出したならば、衛生上の問題なども出てくるかもしれません。やはり、日本では「それ風(ふう)の」料理でよいのではないかと思います。

先日、近所のネパール料理店に試しに入ってみると、ネパール出身の主人がサラリーマン風のネパール人の客たちと雑談をしていました。店は出身国を同じくする人びとにとって、仕事帰りに立ち寄るちょっとした憩いの場になっているようでした。エスニック料理店は、外国出身の人びとがどのように暮らしているのかを教えてくれる良い手がかりになります。その店でも、常連客たちとあれこれと話すうちに、この沿線ではどこにネパールの人びとが多く住んでいて、誰は誰の知り合いだとか、どこそこの店の主人の奥さんは日本人だなどといった話に花が咲きました。
ころで、「エスニック(ethnic)」や「エスニック・グループ(ethnic group)」という語を日本語に訳す場合、しばしば「民族」という語が当てられています。ただ、このエスニックや民族といった語は、一般に広く用いられる一方で、時代や考え方によって用法が異なる少々やっかいな単語でもあります。

もともと「エスニック」の語源となったギリシャ語の単語(エトノス)は、同類の人間集団を意味していました。十五世紀になって、古い時代の英語で使用され始めた頃は、キリスト教徒ではない人びとを意味するようになっていました。キリスト教徒ではない人びととは、当時の英語圏ではユダヤ教徒を指していたのです。言い換えれば、この単語は、「その土地では主流ではない人びとの集団」を意味するものでした。

その単語から派生した「エスニック」という単語は、アメリカ大陸の東側に続々と移民が押し寄せてきた十九世紀後半から二十世紀初頭には、アイルランド系や南ヨーロッパや東ヨーロッパからの人びとを意味するようになってきました。イギリス系、ドイツ系の人びとには使われない単語でした。また当時は、その地域からアメリカに入国するアジア系の移民はほとんどいなかったので、中国人や日本人などに対して、敢えて「エスニック」という語を使うことはありませんでした。ましてや、当時インディアンと呼ばれた先住民の人びとに対しては、エスニックという語が使われたことはありませんでした。

「民族」という概念の特徴の一つは、白人とか黒人などといった昔風の生物学的分類としての「人種」の概念に対して、主に文化面での違いなどに注目した分類とされることにあります。「北方民族」、「南方民族」、あるいは「原始民族」などと言う呼び方は、その種の民族概念に沿ったものです。また、日本語の「民族」は、「ドイツ民族」とか「日本民族」といったような「ネーション(nation)」の意味などを含む、広い概念でもあります。この「ネーション」とは、言語や文化や歴史を共有する人間集団が構成する国家、あるいはその国家の主体となる人間集団を指して用いられる語、すなわち「国民」を指しています。

現在では、エスニックという語は、国などの一定の政治領域の中で主流を占めるグループ以外の集団を指して用いられる場合は、アジア系やヒスパニック系といった人びとに多く見られるような、白人とは肌の色の異なる集団を思い浮かべがちですが、白人でもエスニック・グループと呼ばれる場合があります。たとえば、「ホワイト・エスニック」といった場合には、「ワスプ」(WASP、ホワイトWhite、アングロ・サクソンAnglo-Saxon、プロテスタントProtestantの略)以外のアイルランド系や南ヨーロッパ・東ヨーロッパ系などの人びとを指しています。なお、アメリカの歴史では、黒人に関しては、「人種(race)」として扱い、「エスニック」という言葉を用いない場合が多いのです。
本で「民族」という語が「エスニック」の訳語として一般に広く使用されるようになったのは、いつ頃のことなのでしょうか。正確に何年からとは言えませんが、特に1980年代以降、そうした用法が定着してきたように感じています。その背後には、社会学や文化人類学などの領域を扱う一般書が店頭に多く並び始めたこともあります。ただ、「民族」という語はいろいろな意味を含んでいるので、そのことから生じる混乱を避けるために、最近では、「民族」という語を使わず、「エスニック」などとカタカナ表記する人も多いようです。

「エスニック」という語は、現在では日本語の中に定着し、日本語の辞典の中にも「エスニック」の項目が見られるようになりました。その意味を見ると、「特に、アジア・アフリカ・中南米などの民族文化に由来するさま」などと書いてあります。食べ物というものから見てみますと、確かに、「エスニック料理」、あるいは「民族料理」などといった場合、欧米において主流をなすもの以外の少数集団の料理を指すことが一般的です。日本でも、アラブ、アフリカ、東南アジアなどの料理はエスニック料理と呼びますが、フランス料理やイタリア料理をエスニック料理と呼ぶことは、普通はありません。こうした用法は、エスニック・ミュージックやエスニック・ファッション、エスニック・グッズなどの場合も同様でしょう。ただ、欧米では日本料理はエスニック・フードとして扱われますが、さすがに日本国内では日本料理はエスニック・フードであるとはされていません。

「民族音楽」などという場合も、通常、西洋世界から見て、自分のものとはかなり違った響きや音階や演奏方法などを持つ音楽を指しています。ですからベートーベンやショパンやモーツアルトなどの西洋古典音楽は、本来はヨーロッパに見られる幾種類かの民族音楽と言うべきでしょうが、通常、それらを「民族音楽」と呼ぶことはありません。

面白いことは、日本における「エスニック」という語は、西欧風の意味を引きずっているだけではなくて、さらには、独自の意味を持つようになってきていることです。というのも、「エスニック」という語が日本語の中で用いられる場合、日本古来のものではない、かといって西洋風のものでもない、食べ物、衣服、装身具、芸術などを指すだけではありません。その用法を見てみると、何故か、特に日本から見て「暖かい地域」、たとえば、東南アジア、カリブ海、中南米、アフリカなどのものを言う場合が一般的です。そのためか、沖縄料理店をエスニック料理のなかに込めている例すら見られます。それは、沖縄が日本の土地ではないというわけではなくて、暖かい南方の地域にある島であるというイメージと結びつくものとなっているからなのでしょう。こうしてみると、同じ国内でも、寒い東北の料理をエスニック料理と呼ぼうなどという発想が出ないのもうなづける気がします。
スニック料理は、その集団の世界やアイデンティティと深く結びついています。そのことから見ると、欧米では、家庭であれこれとエスニック料理を日常的に作って楽しむということは、普通はありません。エスニック料理は、外で食べるものです。ところが、日本の主婦は、朝から家族の好みに合わせて洋食と和食を作り分け、朝食はパンとバターとジュースやコーヒー、昼食はスパゲッティ、夕食は中華のおかずにお味噌汁などといった組み合わせで、自由奔放に各国料理を作り分けます。

現在の日本では、日本人だから日本料理を食べなければといった意識は、ますます薄れてきているように思います。正月のおせち料理とか、土用のウナギ料理などの例を除けば、皆がいっせいに同じものを食べるといった傾向もなく、各人が自分の好みに合わせて食べ物を選択しています。こうしたことから見ると、日本の場合、料理に対するアイデンティティの意識は、自分のものに対しても、また他の「エスニック料理」に対しても比較的薄いように思います。料理は料理と割り切って、他の集団の料理を自分の好みで選択し、かつ適度に変化させて取り入れる、そうしたことが上手いとも言えるのでしょう。ですから、クリスマスといえば本来は七面鳥の丸焼きですが、日本ではニワトリの丸焼きになっていたり、バレンタインが好きな男性にチョコレートをプレゼントする日になっていたりするのを見ると、もしかしたら、それが現代の「日本らしさ」をもっともよく表している「エスニック料理」なのではないかとさえ思えてきます。

西江雅之「“文化”を食べる人々」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。