「食」のエッセイ “文化”を食べる人々

第20章 バナナのこと

たしは、第二次大戦が始まる前に生まれました。一般に言われている表現に従えば、“戦前の生まれ”です。戦争が終わったのは、小学一年の半ばのことでした。

最近の大学生と話していると、“疎開”という単語を知らない者が少なくありません。それほど戦争は遠い時代のこととなったのでしょう。とにかく、当時は、子供たちは戦火から逃れるために、親元から離れて、安全だとされた田舎に行くことが普通だったのです。田舎がない子供たちは、集団で特定の場所に行くことになりました。自分の家の田舎がある子供たちは、その土地に暮らす親類などを頼って一時期を過ごしたのです。

わたしは親戚が住んでいた兵庫県の田舎の村に疎開しました。山々に囲まれた土地に美しい田畑が広がる静かな土地でした。運が良かったのでしょうか、その土地には空襲どころか警戒警報もなく、激しさを増す戦火とは程遠い所でした。そのため、わたしは戦前の生まれではあるのですが、現実の戦争の恐ろしさはほとんど知らずに育ったのです。

大人の世界では、物質不足、食糧危機、家族離散、その他にもいろいろなことが生活を苦しめていたに違いありません。しかし、わたしは田舎の身の回りの環境しか知らず、その中で幼児期を過ごし、自分の世界を創っていったので、何の不安も感じませんでした。
齢は四、五歳。それでも、野原で食べられる草や植物の実を見つけ、大川で小魚を捕り、そんなものを自分で調理して食べていました。そして終戦。その一年後、東京に戻ったときは小学二年生でしたが、学校給食というものを初めて体験しました。わたしが今でもはっきりと記憶している食べ物は、その時に初めて食べた“パン”というものでした。名前は“コッペパン”。柔らかくて、真っ白で、ふっくらと膨らんでいて、世の中には、こんなに美味しい食べ物があるのだと驚きました。現在のわたしの言葉で言えば、「感動した」ということになるのでしょう。

こんな話も、今の若い人にはなかなか通じません。多くの人は、その時のパンは特別な高級店で作られた特製のパンだったのではないかと思うようです。しかし、今、それを食べてみれば、まずいとは言わなくても、商品としては成り立たないような安物のパンであったのかもしれません。

パンの次に、食べ物に関して、わたしの記憶に残るのがバナナです。メロンは、あまりにも貴重すぎました。値段も高すぎて、わたしの親が買ってくれるような食べ物ではありませんでした。断っておきますが、わたしの家庭は特別に貧困だったというわけではありません。世間一般に見られる普通の家庭です。それでも、メロンなどという果物は、名前しか聞いたことがない貴重品だったのです。

その点、バナナは貴重品だとはいえ、自分が病気にでもなれば、何とか食べさせて貰えそうな果物でした。店先でバナナを見ると「あぁ、これがバナナという果物なんだ。形も色も、なんて不思議な食べ物なのだろう」と足を止め、食べたいというよりは、ただ見とれていたのです。

こんな話は、今では笑い話にもなりません。それどころか、この種の話が理解できない若者も多いのではないでしょうか。何しろ、バナナは、たった百円で何本も買えるようになったのですから。
後しばらくして、神社の祭りや、駅前の大通りで定期的に開かれる縁日(えんにち)で、バナナの“叩き売り”が見られるようになりました。バナナの叩き売りは、九州の門司港の辺りで始まったようです。戦後のバナナ輸入の初期のように、保存の技術もそれほどのレベルに至っていなかった時代です。入港した貴重なバナナが変質してしまう前に、売り手の威勢の良さで、通りすがりの客に売ってしまうというアイディアが出たのでしょう。フーテンの寅(トラ)さんのような格好をしたオジサンが、アセチレン灯や、裸電灯の明かりの下で、当時は高価なバナナを売り台に山と積み、威勢良く声を張り上げ、台の上を短い棒で叩きながら売るのです。目の前に集まっている客の前で、値段を見る見るうちに下げていく光景は、バナナを買うというよりは、眺めているだけでも楽しくなるものでした。

しかし、その光景も、その後しばらくすると見ることが出来なくなりました。屋台で叩き売りをするのが法的にどうのということではなくて、バナナの値段が急激に安くなってしまったのでした。特別なところに行かなくても、近所の八百屋さんで驚くほど安い値段で買えるようになったのです。そして、バナナは果物屋よりは八百屋のような店で普通に見られるようになりました。

その頃です。わたしは何種類ものバナナがあることに気付きました。まず、台湾産です。それからフィリピン、そして中南米の国から輸入されてくるバナナが、店頭に並び始めました。バナナのような柔らかい果物を南米のような遥か遠い土地から、船で運んでくるとなると、途中で熟れすぎてしまったり、腐ってしまったりするのではないかと気になりました。しかし、輸入バナナは貨物船の中で特別の処理を施されて、日本で売るときには適度に熟した黄色く色づいた状態にされるのだと聞いて、納得がいきました。やや高級な果物店には明るい感じの茶色をした珍しいバナナがあり、それはフィリピンからの“モレノ”という種類だと知りました。細長いバナナあり、太いバナナありで、品質によって値段もずいぶん異なるのだということも見えてきました。
ころで、1950年代の終わり、大学に入った頃でしたが、琉球諸島を一人で旅する機会があり、とても小さなバナナを見つけました。土地の人は“モンキーバナナ”とか“シマバナナ”だと教えてくれました。また、ある琉球方言では、バナナのことを“バシャムー”と言うのだと聞きました。“バシャ・ムウー”すなわち“芭蕉(ばしょう)・芋(いも)”のことです。バナナは芭蕉になる芋の一種だと見られるのだと言われると、本当にそうだなあと感心した覚えがあります。芭蕉のような巨大な葉、紫色の巨大な花をぶら下げたバナナを前にして、異様な物を見たという強烈な印象を持ちました。

わたしは20代に入った頃から、熱帯地方で過ごす機会が多くなりました。仕事の関係で、アフリカ、東南アジア、中南米で様々な国を訪れることになったのです。それらの土地では、バナナの林やヤシの木が見える景色が、最も身近なものとなりました。そのような土地の思い出を話す時に、いつも困ることがあります。それは、バナナは“木”なのか、それとも“草”なのかということです。辞書を引けば、バナナは“バショウ科の大型多年草”と書いてありますが、高さ数メートルにもなるバナナは、草だと言うにはあまりにも巨大すぎて、日本語の感覚からはズレてしまいます。かといって、木にも見えません。ですが、どちらかというと、草よりは木といった方が、日本語の感覚では適切でしょう。それはともかく、熱帯の土地ではバナナに関する知識も自然に増えてきました。

わたしがまず最初に驚いたのは、バナナには大別して二種類のものがあると言うことでした。その一方は、わたし達に身近なバナナで、種類は非常に多いのですが“そのままで食べられる”という種類です。また、他の種類は“そのままでは食べられない”種類のバナナです。熱を加えて料理しなければ食べられないバナナは“プランティーン”と呼ばれます。形は一般的なバナナとまったく変わりませんが、正式に分類すればバナナとは異なる種類のものだとされることもあります。ちなみに、わたしはバナナを果物だと言っていますが、果物ではなくて野菜の一種なのだと言う人に出会うことがあります。多分、その人は英語の“vegetable”を日本語の“野菜”と同じものとみなし、“fruit”は“果物”と同じものだと考えているのでしょう。しかし、実際は、英語の単語と日本語の単語は、その意味が現す領域が異なっているので、“vegetable”=“野菜”、“fruit”=“果物”とはならないのです。したがって、わたしは日本語では普通に言うように、“バナナは果物の一種”だとしています。

いずれにせよ、東アフリカの国ウガンダの西部に滞在中は、わたしは毎日、そのプランティーンを食事の度に食べることになりました。それは、その土地の人々が“マトーケ”と呼ぶ種類で、その土地では主食なのです。朝から晩まで、食事時になると日本の“金団(きんとん)”、すなわちサツマイモを煮てつぶしたような甘い料理を食べなければならないのです。何日も何日も、ただ金団、ひたすら金団。さすがのわたしも、すっかり降参となってしまいました。
本では、バナナを買って来たならば、皮をむいて中身を生(なま)で食べるのが普通です。しかし、辺りを見渡せば、バナナは様々な料理に使われていることが分かります。

その代表はケーキでしょう。世界で生産されるバナナの三分の一は、デザート用に使われると言われます。皮を剥いて輪切りにして、ケーキに乗せるものもあります。ヨーグルトなどをかけるものもあります。ミルクや氷などと共にミキサーにかけて、ジュース状の飲み物とするなどなど、その利用は様々です。また、バナナはアルコール類にもなります。バナナ酒は様々な国でリキュールとして製品化されています。バナナを穀物の粉と混ぜて発酵させて作るバナナ酒は、アフリカの各地に見られます。その他、揚げ物にしたバナナ、乾燥したバナナから、粉末にしたバナナ、珍しい例としてはフィリピンのバナナ・ケチャップのようなものもあり、バナナ料理の世界はとても広いのです。

バナナは、その実だけが食べ物となるのではありません。東南アジアや南アジアの一部、フィリピン、インドネシア、タイ、南インドなどでは、バナナの花が食用として市場に出ていることがあります。わたしは食べたことがありませんが、そのままではアクが強いのでアク抜きをしてから炒めて食べるようですが、味は苦いとのことです。

大量のバナナの葉を集めて燃やし、その灰から僅かな塩を取り出す例を、ニューギニアの何処かの部族を記録した映像で見たことがあります。これも、ある意味ではバナナを食べ物とする例だと言えるでしょう。

バナナの葉を食べるという話は、聞いたことがありません。ですが、日本の桜餅や粽(ちまき)のように、何かをバナナの葉で包んで料理するという例はいくつもあるに違いありません。たとえば、ミクロネシアにはココナツとタピオカを練り合わせて作る餅の一種を、バナナの皮で包んで蒸し焼きにするという食べ物が知られています。

バナナの大きな葉を食卓代わりに使う習慣は多くの土地で普通に見られます。また、乾燥したバナナの葉を素材にして丁寧に編み、食べ物を載せる皿を作るといった例や,敷物にしたり、布にしたりする例も、熱帯の土地には多く見られます。
間とバナナの関係は非常に古く、パプアニューギニアでは、紀元前5000年にはすでにバナナが栽培されていた証拠があると、考古学者が発表しています。また、文字で記された記録としては、紀元前500年にはバナナが栽培されていたことがインドの文献に見られるとのことです。

バナナの長い歴史をさかのぼってゆくと、それは神話のようなものとなるのですが、そのなかでも特に注目すべきことがあります。それはキリスト教の教えに出てくるアダムとイヴの話に関係があるものです。おそらく日本人の大人ならば、キリスト教徒でなくても、アダムという男性とイヴという女性が禁断の実であるリンゴを食べて知恵を得て、エデンの園から追い出された話を、誰もが知っていることと思います。問題となるのは、その二人が知恵を得て、恥ずかしさということを知り、体の一部を隠すために使ったとされるイチジクの葉です。

まず、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた初期の聖書には、イヴが食べ、そしてアダムが食べた果物の種類が何であったかが、明確には書かれていないのです。それがリンゴであるとされ始めたのは、15世紀の終わり頃のヨーロッパからで、その頃から広がり始めた印刷本の影響で、いつのまにかアダムとイヴとリンゴは切り離せない話の三要素となったようなのです。その後、キリスト教関係のどの本の挿絵も、アダムとイヴの絵にはリンゴが欠かせないものとなっています。そして、リンゴを食べて知恵を得た二人が最初にしたことは、自分たちの体の中の恥ずかしい場所をイチジクの葉で隠したという行為です。しかし、そのイチジクの葉ですが、そもそも恥ずかしい場所を隠すには、イチジクの葉では小さ過ぎると思いませんか?

聖書研究の分野では、そのような疑問から、実は二人が性器を隠したのは小さなイチジクの葉ではなくて大きなバナナの葉であるという説が出たのではありません。真面目な文献研究の結果、その物語に見える単語の語源はイチジクではなくてバナナであることが判明したということなのです。その説を成り立たせる語源研究の筋道を追ってみますと、なるほどと思えるものです。ただ、その研究の結果、アダムとイヴの絵が描き変えられたという話は、まだ耳にしたことがありません。

西江雅之「“文化”を食べる人々」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。