「食」のエッセイ “文化”を食べる人々

第14章 食べ物と技術の進歩

日、ある学会に出席するため、久しぶりに冬の京都を訪れました。京都には非常に親しい友人が何人かいて、こういう機会があれば皆で近況を話し合ったりして、共に一夜を過ごすことになります。そして、その場所は誰かが選んで予約を取ったレストランということになります。

京都には、誰もが素晴らしいという料亭やレストランがありますが、わたしは何故か京都の食べ物が、あまり口に合いません。値段の話は別とします。一般料理から和菓子などのおやつに至るまで、その色や形があまりにも日本的というか、人工的なものなので、わたしにとっては“食べ物”らしく感じないのです。「それが京都の素晴らしさなのに」と、京都人に言われてしまいますが、食べ物の好き嫌いなどというものは、極めて個人的な感覚や、当人の過去体験などによるものなので、理屈に合うものではありません。わたしは、子供のころから野山を駆け回り、川で魚を捕っては丸ごと焼いて食べ、野菜をそのままムシャムシャと齧って育った人間なので、食の趣味に関しては、「野蛮人」と言われても仕方ありません。

京都滞在二日目、わたくしが東アフリカのケニアに滞在していた頃から、数十年来の友人であるYさんご夫妻と食事を共にしました。Yさんは現代美術の作家です。他人が着ているシャツやセーターを譲り受け、わざわざほぐして、その糸で得体が知れない形の物、すなわち作品を創るという人です。観光客で込み合う表通りから二筋ほど裏に入った、まだ古い京都の町並みの風情が強く残る道に居を構える人物ですが、その伝統的で古風な環境に囲まれて生活することと、その超先端的な作品創りとが、どのように彼の中で共存しているのかが不思議に思えるほどです。

そのYさんが、わたしが京都を訪れるたび、京都やその周辺の土地で見られる通(つう)の味を教えてくれます。おかげで京都の味を多く知ることができましたが、それは馴染んだというよりは、知ったということです。今回、帰りがけにYさんが持たせてくれたお土産に、強烈な臭いを放つ一品がありました。“ナレズシ”です。「琵琶湖産ですが、三年物ですから最高級ですよ」と、大切そうに渡してくれた。わたしは、京都を代表する食べ物の一つである野菜の漬物にも、あまり食指が動かされません。新鮮な野菜を、そのままの形で食べることに慣れているからです。しかし、ナレズシと聞くと、野菜の漬物どころではなく長い日々漬け込んだものであるにも関わらず、嬉しくなってしまいました。さきほどの話からすれば、新鮮さなどとは縁遠いものに食指が動くのは不思議だと言われるかもしれませんが、個人的な食べ物の好き嫌いは矛盾しているのです。
在、スシは“寿司”と書かれていますが、それは比較的新しい時代にできた当て字です。スシは、本来は“酢”とか“鮨”の漢字が使われました。ナレズシは、漢字では“馴酢”と書かれます。古い時代には、スシの原型とも言えるものは魚だけではなくて、鹿や猪や雉(きじ)の肉でも創られていました。猿の肉まで使われていたというから驚きます。中国の後漢時代の書では、魚を使ったものと、獣の肉を使ったものとでは、異なった漢字が使われていました。

ナレズシは、日本の食べ物の中でも、おそらく最も強烈な臭気を持つものだと思います。八丈島の“くさや”なども、その匂いは強烈ですが、ナレズシには敵いません。ナレズシと言えば近江のものが有名ですが、春にとれた産卵前の鮒を塩切りして漬け込み、しばらくしてから鮨桶にご飯と鮒を交互に詰め込んで、重石を置いて数カ月から数年の間、発酵させたものです。鮒(ふな)以外に、アユ、ハヤなどの魚を用いることもあるようですが、やはり、鮒で作った物が最高です。ナレズシは適度な薄さに切ってそのまま食べることも出来ますし、二、三切れのナレズシと刻み塩昆布などを乗せて茶漬けなどにすることもできます。

東京の生活では、ナレズシを食べる機会はそんなにあるものではありません。おすそ分けする人が誰かいないかと思っていたら、大学で留学生に日本文化を教えている女性が参加してくれることになりました。そこに、中国の大学で日本語を教えている知人が帰国していて、偶然、訪ねて来ました。「君たち、外国人に日本語や日本文化を教えているのなら、日本の食文化の元祖、ナレズシの味ぐらいは知っていた方が良いですよ」と、わたしは少々得意になって、数人の面々で鍋を囲みつつ、ナレズシの味見会とすることにしました。

袋から本体を取り出すと、鮒の身はもちろん、その身にへばりついている発酵したご飯がとても匂います。我が家での味見会では、チーズの臭みを強烈に増幅させたようなあの臭いが一口で駄目だという人が出ました。しかし、とてもたまらないと降参した者がいる一方で、なかなか良い味だと益々お酒が進んだ通人もいたのでした。
レズシは発酵食品の一種ですが、人類は食料の保存や加工のために、発酵はもちろん、その他にも色々な手段を開発してきました。現在では、一般家庭での食べ物の“保存”と言えば、まず、冷蔵庫の使用を思い出すでしょう。冷蔵庫は、数十年前までは、氷屋さんで「一貫目ください」などと言って買ってきた氷の塊を箱型の容器の中に入れて、食べ物を冷やしておくというものでした。それが、あっという間に冷蔵庫の内部で自然に、というよりは電気の力で生まれた冷気を使って、食べ物を冷やすという道具になりました。さらにその後は進化して、氷らせる、冷やす、野菜を保存するなどと、冷蔵庫の内部を目的別に仕切った製品が出てくるようになりました。

冷蔵庫の普及はわずか数十年内の出来事だったのですが、そんな当たり前の話が通じないという若い人も多いでしょう。しかし現在では、握ったばかりの寿司を入れておけば、一年後に食べても味や食感が一切変わらないという驚きの冷蔵庫も開発されています。一年たっても、二年たっても、素材の新鮮度が変わらない。そんな夢のような冷蔵庫が、あと数年後には一般家庭でも使われるようになるかもしれません。その時は、性能が良い今の冷蔵庫も古臭いとされるのでしょう。そして、“旬(しゅん)”の物も何時でもそのままの味で食べられるとなれば、“旬”という言葉の意味も変わらざるを得なくなるのです。その種の冷蔵庫は、食べ物の保存だけではなくて、人体の臓器などの保存にも応用されるのですから、医学の面でも非常に有益なものとなるに違いありません。
ころで、こうした食べ物をめぐる技術の進展を見てみると、大きな転換は十九世紀にはすでに始まっていたようです。十九世紀は、欧米を中心に新しい工業技術の導入によって、それまでとは異なる大量生産の加工食品が次々に世に出され、人々の食卓を大きく変化させた時代と言えます。

まず、天日で干す、塩漬けや砂糖漬けにする、燻製にする、氷で冷やす、と言ったような、自然の力に頼るものではなくて、まったく人工的な操作で食べ物を保存することを可能にさせたのは“缶詰”でした。缶詰は加熱殺菌と空気遮断によって、保存方法に画期的な変化をもたらしたものでした。缶詰といえば、ツナ缶や蟹缶など固形物を詰めたものが思い浮かびますが、考えてみれば、コーヒーやコーラを始めとする飲料の類も多くが缶詰にされて売られています。それどころか、物好きな人を対象として、高山の澄んだ空気とか、女性の下着などというような、食べ物以外の缶詰もいろいろと製造されています。

缶詰製造には、今から遡ること200年余りの歴史があるようです。缶詰製造に至る道を最初に開いたのはフランス人のニコラ・アベールだとされています。1800年代の初めに、アベールは、肉や、果物、野菜、それに牛乳までも、ガラス瓶の中に入れて熱を加えて殺菌し、密封するという方法を発明しました。その発明は注目を浴び、軍隊用の長期保存可能な食料を確保するために役に立つと、ナポレオン率いる当時のフランス政府から優遇され、資金面での援助も得たようです。

また、アベールの技術を裏付けたのは、発酵や腐敗が自然発生するのではなくて、微生物の働きによるものであることを明らかにしたフランスの化学者、ルイ・パスツールの実験でした。とはいえ、パスツールの発見が世に受け入れられるようになったのは1860年代以降のことですから、アベールの発明はパスツールに先駆けること半世紀以上であったと言えます。パスツールは、自らの発見を食品加工技術にも応用しましたが、その成果の一つが、今でも牛乳の殺菌に用いられる「パスチャライズ」という方法です。これは牛乳を約60度で30分ほど加熱して殺菌するというもので、より高温で数秒のうちに殺菌する一般的な方法に比べて、牛乳の風味を損なわないと言われます。
ころで、アベールが用いたのはガラス瓶でしたから、割れやすいことが最大の難点でした。ガラス瓶に変わってブリキ缶を用いて缶詰を開発し、イギリス政府から特許を得たのは、イギリス人のピーター・デュランドでした。さらに、1812年には、同じくイギリス人のブライアン・ドンキンとジョン・ホールが世界初の缶詰工場を設立します。そして、わずか数年のうちに、子牛肉やコーンド・ビーフ、羊肉と野菜のシチューの類までを缶詰として生産していたようです。ただ、当初は缶詰の価格は生の食品よりも高く、缶詰を購入するのは、もっぱら軍隊や探検家たちに限られていました。また、日常的なものだけでなくて、当時はご馳走だとされた食べ物も缶詰や瓶詰めにされて、当時のイギリスが世界各地に持っていた植民地の居住者たちにも送られていました。故郷を離れて住むことになった偉い人々の贅沢品の一部であったのです。たとえば、1830年代にはすでに、トリュフ入り野うさぎのパテといった高級料理が缶詰にされて、当時はイギリスの領土であったインド北部の地で食べられたという記録もあります。

その後、缶詰製造技術が拡大するのが新天地アメリカでした。特に、1861年に始まった南北戦争で需要が高まったことを受けて、缶詰工業は大いに発展しました。たとえば、1850年代には、アメリカのゲイル・ボーデンが、砂糖を加えると細菌の発育を抑えることを発見し、コンデンス・ミルクの缶詰を作りました。南北戦争の際には、ボーデンのコンデンス・ミルクは軍隊で使用され、兵士たちに大いに好まれました。1860年代後半には、それまで手工業生産だった缶詰製造が機械化されるようになり、1870年にはすでに約4,000万缶もの各種の缶詰が生産されていたようです。現在では自動車産業の町として知られるシカゴは、流れ作業による工程を採用し、コストを削減するなど、当時は缶詰製造の先端を行く土地でもありました。また、缶詰製造に関わる様々な工程で機械化も進められました。たとえば、カリフォルニア州の鮭(さけ)の缶詰工場では、鮭を処理する作業のために中国人労働者が雇われていましたが、1882年に中国人移民が禁止されるようになると間もなく、”iron Chink(鉄製の中国人)“と呼ばれた処理機械が発明されました。“chink”というのは、細い裂け目や、割れ目、隙間などを意味する単語です。当時のアメリカでは、中国人は細い目をしているというステレオタイプで捉えられていたので、そうした差別的な感じがする呼称が付けられたのでした。
た、十九世紀には、化学技術を応用して新しい食品を作りだすといったことも試みられました。その代表的な例としては、砂糖やバターなどに代わる代用食品が挙げられるでしょう。たとえば、ドイツの化学者、マルクグラーフは、1747年にはヨーロッパで普通に手に入る蕪(かぶ)の一種であるビートや人参などから砂糖を抽出できることを発見していました。砂糖といえば、熱帯で生育する砂糖黍(きび)が知られています。砂糖黍は日本でも沖縄の主要産物の一つですが、残念ながらヨーロッパの気候では栽培が難しいものです。マルクグラーフの発見は、十八世紀末のイギリスによる海上封鎖で、ヨーロッパ各地で海外からの砂糖の供給が困難になった頃から特に注目を集め、十九世紀半ばにはビートなどから砂糖を精製する工場が数多く作られました。

ビートから作られた砂糖は、砂糖黍から作られた砂糖の代用品として、それほど抵抗なく受け入れられたようですが、バターの代用品であるマーガリンの場合、事態は少し違っていたようです。1860年代後半、フランスの化学者、イポリート・メージュ=ムーリーが、牛脂や牛乳を用いてバターに代わるものを作り上げ、マーガリンと名づけて特許を取得しました。しかし、当初は本物のバター製造業者たちから大いに抵抗を受け、マーガリンの原料となる脂肪について、ぞっとするような噂が流されたりすることもあったようです。また、初期のマーガリンは、従来のバターと比べて、安く手に入るものであったものの、本物の味には遠く及びませんでした。しかし、二十世紀後半になると、マーガリンの消費量は急増します。その背景には、欧米で多い心臓病の一因として動物性脂肪が敬遠されるようになったこと、そしてマーガリンの原料が動物性脂肪から魚や植物に含まれている脂肪へと変えられ、より健康に良い食品と考えられるようになったことがありました。

十九世紀の欧米に起こったもう一つの重要な発明は、食べ物のエッセンスを凝縮して抜き出すというものでした。たとえば、スープや味噌汁などを作るときに用いる各種のうまみ成分を粉末や粒状にしたものは、その典型です。日本でも、1909年に鈴木三郎助が「味の素」の生産を開始したことは知られていますが、すでに1800年ごろには、フランスではパルマンティエとプルースト、イギリスではウェストラムが、肉汁を煮詰めて作った一種のスープの素を作り出しています。この肉汁の成分を解明し、イノシン酸、クレアティン、サルコシンが含まれていることを見出し、「肉エキス」と名づけたのは、ドイツ人の化学者、ユストゥス・リービヒでした。1860年代には、リービヒの名を冠した「リービヒ肉エキス」が売り出され、大成功を収めました。この肉エキスは、肉の水分を蒸発させて乾燥させた後で粉末状にし、缶に詰めたものでした。この肉エキスは肉を使って作るため、値段の張るものでしたが、十九世紀末から二十世紀初頭になると、植物性の原料を用いた安価なスープの素が盛んに作られるようになり、肉エキスにとって代わるものとなりました。その安価なスープの素を作りだし、やがて世界的な企業に成長したのが、今でもスープの素と言えば目にするマギー社やクノール社です。
では、スーパーに行くと、十九世紀に開発された缶詰やスープの素の類はもちろん、色とりどりのパッケージに包まれた冷凍食品やインスタント食品が溢れんばかりに並び、家で食べようが、外食しようが、気がつかないうちに、食品工業の恩恵にあずからずには生きていけないほどになっています。こうした状況は今日ではすっかり当たり前のものとなっていますが、考えてみれば、こうした時代は人類の数百万年に及ぶ歴史のうち、ほんの一瞬に過ぎないことです。

幼い頃、わたしは戦火を逃れて、父親の実家がある兵庫県に疎開していましたが、そこでの大きな楽しみは、野山に出かけては、鳥や魚や虫を捕まえ、焼いて食べることでした。当時、わたしは、小説に出てくるネイティヴ・アメリカンのような狩猟採集民の生活に憧れ、それを実践しようとしていました。戦争が終わって東京の池袋近くの実家に戻ってきた後は、獲物も限られているので、主に動物の観察に没頭することとなりました。その頃から手の込んだ食べ物は苦手で、味噌汁に至っては、なぜあのような色の得体の知れない液体を飲まなくてならないのかと主張して、親を困らせたものでした。

その思いは今も同じで、フィールドワークに行っても、原型が分かるものを食べるのが身についた習慣となっています。ただ、少し前にパプアニューギニアの奥地に行った際には、現地で食べ物を調達できるまでの数日間、ニューギニアで広く売られているマギー社のインスタントラーメンのお世話になりました。その土地は、なんと1930年代に黄金を求めてやってきたオーストラリア人の若者たちに発見されるまで、外部の世界というものを知らず、鉄器も知らず、いわば石器時代の生活をしていた場所でした。そうした場所で、十九世紀に開発されたスープの素の技術を始めとし、その後開発されてきた種々の食品技術の恩恵にささやかながらあずかったことになります。その時のインスタントラーメンの味は、時空を超えて、不思議な感慨を及ぼすものでもありました。

西江雅之「“文化”を食べる人々」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。