「食」のエッセイ “文化”を食べる人々

第12章 ニワトリの話

い歴史を通じて、人間は自然界にいる様々な動物を捕え、自分たちの身近な所に置いて生活をしてきました。それだけではなくて、自らの欲求を満たすために、その動物たちの体型や色や形を思いのままに作り変えてきました。その行為を、一般的には“改良”と呼んでいます。改良とは、動物の側から見たことではなくて、人間の一方的な都合から見たことだと言えるでしょう。

人間と共にいる動物を、家畜、養殖動物、ペット、などと分類することが出来ます。または“食用”と“非・食用”というふうに、大別することも出来るでしょう。非・食用の代表的な動物には、毛皮を取ることだけを目的として飼われているミンクやテンなどがあります。ヒツジ等は、長くて柔らかく、あたたかい毛を取ることを目的とすることでは非・食用ですが、食肉にするためにも飼われているので、食用動物でもあります。中にはペットとされている羊もいます。同じ種類の動物が、様々な用途を持って飼われているとも言えるわけです。

人間が動物を身近に置く場合、種類によっては本来の姿形を保ったままで飼い続けますが、種類によっては人間の欲求にそぐうようにと、その動物の体を人工的に変えてしまうことに専念します。食用を目的とした動物は、大抵の場合、体に手が加えられます。肉を多くするために“もっと太れ”、“もっと早く大きくなれ”、“もっと美味しくなれ”、“骨や毛など食べられない部分は、もっと少なくなれ”といった願いをかけて、飼い方に工夫がなされます。また、その動物を飼う目的が“肉”を売るという経済活動である場合には、出来るだけ安く、出来るだけ短時間のうちに、出来るだけ多くの数を同時に、ということを目指して、“効率”の良さが追求されます。動物は、工場のような環境の中で、機械的な製造行程を経て“製造”されます。そこでは、動物はすでに“生き物”ではなくて、商品という“物”となります。

こんなことを言われると、せっかくの肉料理を前にしても、食欲がなくなるという人が出てくるかもしれませんが、厳格なベジタリアン(菜食主義者)を除けば、このことは誰もが日常的に直面している現実なのです。ただ、現在では多くの人が、テーブルに載る前の、実際に生きている動物を目にせず、料理されたもののみを“食べ物”として見るという日常のなかに身を沈めてしまっているので、自分が食べている“食べ物”が生き物であった時の姿をすっかり忘れてしまっているのです。
間が欲望をひたすらに追い求めながら、動物の体を勝手に“自分好み”のものに作り変えるという話題をもう一歩進めて、人間の恐るべき欲望の例を挙げるならば、その最高のものは、犬や金魚に見られます。犬は単なる狼の一種を長年かけて作り替えたものにすぎません。毛が長くなれ、首が短くなれ、脚が短くなれ、顔が平たくなれ、体が小さくなれ、大きくなれ、丸くなれ、やたらと吠えるな、などなど、人間の犬に対する期待は尽きることがありません。そして、その結果として出来上がったものを「可愛い!」などと言って喜んでいるのです。金魚も同様です。単なるフナの一種に、何代もかけて手が加えられた結果、丸くされたり、細くされたり、様々な色や模様を付けさせられたりして、「見事だ!」と言って称賛されているのです。どんな種類の犬でも、本当は同じ種類の単なる犬です。犬には雑種はいません。すべて純血種なのです。どんな種類の金魚も、純粋種です。巨大な体をしたセントバーナードと、ちっぽけな体のチンとは同じ種類の動物なので、その間には子供が生まれます。この両者が異なっている点は、人間が行った加工努力の結果と希少価値など、人間にとってのみ有効な価値だけです。

動物に対しての、このような行為は残虐なことなのか、それとも、それとこれとは別問題とすべきなのか、その判断も人間の思い込み次第です。ペットの存在や食肉となる動物たちの問題と、動物愛護のような問題とを、何の疑問も無しに分けて考えることが出来るというのは、個々の人間を取り巻く時代の生活文化や個人個人の育ちの中で形成される部分を多大に持っています。インドの人々に牛肉の栄養について語ったり、アラブの人々にトンカツの美味しさを語れば、きっと、予期せぬ反応が返ってくるでしょう。日本の人々に、犬料理の素晴らしさを語れば、気まずい思いをするでしょう。アフリカのある地域で、親子ドンブリについて語れば、周囲から冷たい眼で見られることになります。
て、食べ物の話に戻りましょう。食べることを一番の目的として人間に飼われている動物は“家畜”です。広い意味で家畜と言えば、獣類のみではなくて鳥類もが含まれます。養殖される魚介類(ウナギやハマチなどの魚類やアワビなどの貝類)、昆虫(ある種の甲虫類の幼虫、バッタ類、など)や爬虫類、両生類(蛇やトカゲ、カエル)などは、普通の場合、家畜の類には入れません。ハトなどは、日本ではペットに入るものですが、アラブの一部に見られるような食べることを目的として飼われているハトは、どちらかと言えば家畜に入るようなものです。中国の一部では一般食であったり、韓国のように犬牧場とされる場所があるような地域では、犬はペットの部類にも、家畜の部類にも入ることは確かです。
とえば、家畜の代表でもある牛は、人間に肉やミルクを与えてくれます。豚も肉を与えてくれます。それだけではなくて、牛も豚も衣服やバッグなどの所持品として役立つ皮を人間に与えてくれます。このように、食べることになる動物は普通の場合、一匹何役も果たすのが普通です。こんなことを考えてゆきますと、最も多くの役を演じている家畜は、“ニワトリ”だということに気付きます。食べる、姿を観る、鳴き声を聴く、二羽で闘わせる等など、その役割は多種にわたります。

名古屋コーチンも、シャモも、尾長鳥も、すべて同じニワトリです。ただ、良い味が欲しい、卵を沢山産んで欲しい、肉の量を増やしたい、きれいな色の羽を付けさせたい、尾羽を長くさせたい、大きな声で鳴いて欲しい、闘争心を強めたい、といった目的で、人間によって体を作り変えられたものでしかありません。また、現在の日本では、ほとんどの場合、肉の形になったものが市場に出てきますが、東南アジアやアフリカ、カリブ海域などでは、生きたままの姿で市場で売られているのが普通です。
ワトリの起源は、個々の種類の家畜の起源と同様に、「ある時、ある場所で、突然に出来上がった」というのではなくて、長い時代の流れの中で徐々に姿を変え、「それはニワトリだ」と、社会が認めるようになる過程の一時期にあるのです。

そうした意味で、ニワトリの祖先はアジアの南部にあるとされています。照葉樹林文化と呼ばれている地域、その中心はタイ、ラオス、ヴェトナム、中国の雲南省、等ですが、その辺りがニワトリの故郷とされているのです。動物学の本を見ますと、その鳥の名は“アカヤケイ”と書いてあり、このカナ文字の名前はどこに切れ目があるのかと迷います。漢字で書けば、“赤・野鶏”となるようです。そのアカヤケイが家畜化され、ニワトリになり、次第に世界中に散っていったのです。

ここで注意すべきことは、肉や卵を食料とするためにニワトリが飼われるようになったのは、意外なことに、それほど昔のことではないということです。
ず、初めの頃、ニワトリは宗教と密接な関係を持っていました。もちろん、それは現在の大宗教ではなくて、各地で見られた民間宗教です。そうした民間宗教では、動物の腸や肝臓の宗教的な利用が多く見られます。それは家畜より狩猟される野生動物の場合に多く、命を貰ったことへの感謝の気持ちを表わすための祈りと共に神に捧げられたり、祈りと共に人々に食べられたりしました。ニワトリに対しても、そのような行為が見られたようです。しかし、ニワトリの宗教的な利用で最も代表的なものは、“占い”です。

たとえば、ニワトリの大腿骨には見事な穴が開いています。その穴に竹の楊枝(ようじ)のような物を刺し込み、反対側から出てきた楊枝の角度で運を占うというのが、アジア各地に見られます。祈りの言葉をつぶやきながら、絞め殺し、その死体を地面に落とし、その場に見られる両足の位置や角度で運を占う、または、生きているニワトリの首を一気に刎ね、首なしのままトコトコと数歩だけ歩いて地面に倒れた時の、脚の開き方で運を占う等など、ニワトリの脚や足指が作る形は、何か不思議な力を持っているという信仰が世界の各地で過去には多く見られたし、現在も見られる土地があるのです。

卵そのものも、不思議なものです。それは生き物であって、生き物ではありません。神秘的な形、色をしています。中には黄身という奇怪な玉が入っています。そのようなことを気にしていれば、長い年月の間に、卵は特別な力を持ち、それは人間に何事かをもたらすと考えられるようになるのは自然の成り行きです。

占いは、ニワトリの体を使ってされるだけではありません。鳴き声も利用されます。一番簡単な例は、朝、一番に鳴く雄鶏を飼っている者には幸福が約束される、最後に鳴く雄鶏を飼う者には不幸が訪れるというものです。

また、ニワトリは闘わせることを目的に飼われます。二羽の雄鶏が、どちらかが倒れるまで戦うのです。土地によっては一方が殺されるまで戦わせます。足に刃物が結び付けられることも有ります。闘鶏は、東南アジアの国々のように殺生を戒める仏教国では禁止されたり、避けられたりするのですが、伝統となっている闘鶏は簡単に消えるものではありません。それに、闘鶏には賭け事としての意味も加わるのが普通ですから、その道のファンは、むしろ熱意を持って闘鶏を続けることになるのです。同じ、競技的な興味をそそるものでも、尾羽根の長さを競う尾長鳥のコンテストや、鳴き声を競う“刻の声”大会のようなものは、ずっと健全に思えます。

いずれにせよ、ニワトリは、奇怪な形の足指のような体の一部も、神秘的な形の卵も、それが宗教的な意味を持つと同時に、食べ物タブーと密接に関係するようになっている地域が世界には沢山あります。食べ物タブーと言えば、豚肉はイスラム教では避けられるとか、牛肉はヒンディー教では避けられるということを知っている人は多くいますが、ニワトリの肉、卵が食べ物として避けられる土地があることは、意外に知られていません。アフリカ、アジアの一部などでは、ニワトリに関係するタブーは、まったく普通のことなのです。そして、そのあり方は、地域によって、集団によって、かなり取り決めが異なります。ある社会では、ニワトリに関するすべての物、すなわち肉と卵を食べることを全面的に禁じています。ニワトリは占いなどの目的でのみ飼われます。ある社会では、女はニワトリを食べてはなりません。ニワトリの肉は、性的に淫らな女を作るとされているからです。ある社会では、ニワトリの肉は、死をもたらします。ある社会では、ニワトリの肉、卵は不妊と結びつきます。産後の一定の時期は、ニワトリを食べてはいけないとする土地もあります。いずれにせよ、ニワトリの肉や卵を単なる“食べ物”だと信じているのは、日本やヨーロッパ、アメリカなどであって、それも現代人の間だけでの話です。
在の世界では、ニワトリはまず“肉”となります。そして、それは“鶏肉”から“かしわ”というように、名前を変えることになります。もちろん、ニワトリは種類によって、また、体の場所によって、その肉の価値は異なります。現代では、世界の多くの土地で、養殖の鶏肉と、放し飼いの鶏肉とは、商品としての区別がはっきりしています。たとえば、地鶏であると表示することは、肉屋の店先でも、レストランでも重要なラベルとなっています。肉は、刺身となってナマのままでも食べられます。その他、焼く、焙る、揚げる、煮る、燻製にする、粉末にする、といった具合に、あらゆる調理法で料理されます。卵は多様な料理となってテーブルに上ります。卵も元の味がある程度損なわれないような料理(たとえば、卵焼き)から、原型は一体何であったのかが、まったく見当もつかないようになってしまっている料理(ケーキ類やアイスクリームのようなもの)まで、極めて幅広い形で料理されます。

ニワトリの肉は、一般的には淡白な味なので、調味料などを付けて多様な料理を作るのに適しています。インドネシア、マレーシアをはじめとし、東南アジアでは一般的な料理である“サテイ(satay)”は、鶏肉を竹串に刺し、その土地のソース、ライムの汁、砂糖、ガーリックなどを使ったタレを付けて焼いた料理です。最近はどの都会に行っても珍しくなくなったインド料理店で、最もポピュラーなのは“ティッカ(tikka)”ですが、これはアラブでは普通に見られる焼肉“ケバーブ(kebab)” と同じような料理です。イギリスには、インド系の住民が多く生活をしていますが、その人々が作る“チキン・ティッカ・マサラ(chicken tikka masala)”は、インド系の人々の間のみか、一般住民のなかでも非常に身近な料理の一つとなっています。香辛料と鶏肉。この組み合わせは、最もアジア的な味がする料理の一例ですが、今では世界の味として存在するようになっているのです。

西江雅之「“文化”を食べる人々」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。