「食」のエッセイ “文化”を食べる人々

第11章 食べる行為と用具

たしは散歩が好きで、近所の池や森に朝夕の運動としてよく出かけます。その散歩道で雑木林や藪地に出ると、時折、思い出すことがあります。

わたしは、幼い頃から野生の生き物の生活に憧れていました。虫・鳥・動物を問わず、何でも熱心に観察し、その生態を記録したりしていました。近所のスズメなどは、一羽一羽の顔を見分けられるようにと、子供ながらに訓練を積んだこともありました。それどころか、本気で猫や鳥になりたいと思い、自由に縁の下を這い、屋根から屋根へと跳びまわれるようにと、日夜練習に明け暮れたものでした。野鳥や小さな獣が食べている物を、自分でも試食したりしていたので、近所に見られる生き物は大抵、一度は口にしたことがあります。

中学生になると、犬猫やスズメやトンボなどと同じ生活を送ることは難しいと悟って、生活が変わりました。少し人間らしくなって、動物学者になりたいと思うようになりました。その頃、尊敬していた生物学の先生は、教室に閉じこもり型の人ではなくて、完全に屋外型の人でした。ある時、その先生が、校庭の木々を見ながら、「君たち、人間と草や木の大きな違いは、いったい何だろうか」とお尋ねになりました。「植物はじっとしていますが、人間はゴソゴソ動き回ります」と、わたしは答えました。すると、先生は、「もっと重要なことがあります。それは、木は人間の逆さに生きている、また、人間は木の逆さに生きている、ということです」と教えてくださいました。

なるほど、生きるのに必要な栄養分を、木は本体の下側からとり入れ、上の方に付いている葉などから、不要となった物を排出しています。人間はといえば、その反対に、体の上方の頭に付いている口から必要な物を体内に入れ、体の下方にある泌尿器や肛門から必要なくなった物を排泄しています。先生のこの教えのおかげで、今でも、わたしは、大きな木を見ると逆立ちをしている人に見えることがあるのです。
ころで、「食べる」という行為を生き物全体で考えてみますと、いろいろ面白いことに気がつきます。まず、生き物にとって、食べる行為というものが、どれほど多様であることでしょうか。例えば、草木は、自分からは動くことなく、栄養となる物をじっと待ち受けます。本体はほとんど動かないのに、イソギンチャクのように多数の触手を持っていて、欲しい物が近付いてきたら、それを素早く動かして獲物を捕らえる生き物もいます。自分の体の色や形を変化させ、他の物体そっくりに化けることで、相手の目を欺く擬態の名人も少なからずいます。レーダーのような探知機をつけていて、それで餌となる生物を探り出すという、驚くべき能力をもった生き物もいます。

食べ物を求めて、自らの体を移動させるのは、基本的には、体の前方に食べ物を摂取する器官を持つ生き物です。その場合、口は体の進行方向の先端についているのが普通です。身近な鳥、魚などを見ても、それは納得できることでしょう。しかし、生物の世界は多様性そのものですから、中には常識を破る動物もいます。例えば、蛸は、頭と呼ばれている部分は実は腹で、口は腹と長い八本の足の間にあるのです。

ある時、わたしはSF映画で有名になったE.T.(イーティー)は、何を食べているのかというテーマのシンポジウムに参加することを頼まれました。他の参加者は、E.T.が食べていそうなものを動物や植物や鉱物などから選んで、それぞれ意見を言っていました。しかし、わたしは「食べるということは、生命維持に必要なことで、それは別の言葉で言えば、エネルギーの摂取です。そのためには、エネルギーを必ずしも口から摂取する必用はありません。皮膚からでもよいし、足裏からでもよい。ましてや、E.T.は我々とは次元が異なる宇宙から来たというのですから、エネルギーの摂取方法が地球上の生物とは異なっていても変ではありません」と、発言しました。もし、E.T.が地球上の生物と類似しているとしたならば、わたしのような研究者は、まず、E.T.の排泄物を集め、それを分析するところから始めます。また、もし、E.T.が異次元世界のものならば、排泄は皮膚から発散させている気体のようなものかもしれませんし、その他、直接に地面に接触している体の一部から地中に放出しているかも知れません。
んなことを考えてみますと、人間もまた、おかしな動物であることに気がつきます。人間の場合、確かに口は頭に付いていますが、それは魚や鳥などのように頭部の先端にあるわけではありません。ほとんどの魚や鳥の場合は、頭の先端が二つに割れて、口となっています。しかし、人間の口は、頭の前面、顔と呼ばれる場所の中ほどについています。犬や猫、リス、ライオンなどにも、それは言えることです。

そこで、鳥や馬などを見ますと、嘴や口と呼ばれる部分が、頭との割合で非常に大きいことが分かります。さらに、口だけを使って食べ物を食べる生き物は、口の上側と口の下側との大きさや、強さが大体そろっていることにも気づきます。他方、人間や犬や猫などの動物は、口が体全体から見れば非常に小さいばかりか、口の下側の部分、すなわち下顎が上顎に比べて、ずっと小さく、薄いのです。そして、通常の姿勢でいる時には、口や目、鼻などがついた顔の部分は正面を向いています。

それは、人間や犬や猫などの動物は、物を食べるときに、口だけでなくて、手や前足が大いに食べる行為を助けていることに関係しています。手や前足で食べる物をおさえて食べやすくするので、口の負担が少なくてすむのです。さらに指をバラバラに動かして使うことで、食べるときに口にかかる力が大いに軽減されるのです。面白いことは、食べるときに、前足や手、指を使う動物の顔は、平らで、食事中の姿勢は腰を下ろした座り方となっているのです。

前足や手を使って物を食べるようになったために、顔が平たくなったのか。または、顔が平たくなったために、食べるために前足や手が必要になったのか。どちらが原因で、どちらが結果なのか、その因果関係を考えたくもなりますが、簡単に結論は出そうにもありません。
だ、確かに手を使わないで食べるには、口が体の先端についていた方が、はるかに便利です。そういえば、わたしには息子が一人いますが、彼が今でも忘れられないという話があります。彼が幼かった頃に、目の前で飛んでいるトンボを、わたしがジャンプして、口で捕まえて見せたというのです。もちろん、手は使っていません。何故、そのようなことが出来たのかは覚えていませんが、かつて身につけた猫のような素早い動作が、動きが一定していて捕まえやすいトンボを前にして、よみがえったのかもしれません。幼い頃の野生の血が騒いだのでしょうか。ところで、考えてみれば、鳥や魚のように、口が大きく体の先端についていたならば、これは簡単な動作に過ぎないでしょう。しかし、人間のように、平たい顔と小さな口の持ち主ならば、かなり苦戦する動作であるように思います。
らに、人間の食事行為を見てみますと、不思議なのは“道具”の使用です。餌とする卵を割るために小石を使う鳥がいるとか、木の枝などを道具のようにして使う類人猿がいることは知られていますが、それは人間の道具使用と比べたら、ささやかなものです。

人間には多様な食事文化が見られます。日本食では箸(はし)、フランス料理ではナイフとフォークといった具合に、食べ物の種類に応じて、人間は様々な道具を使いわけます。しかし、何故、そんな道具を使うのかと問われれば、本当のところ、必ずしもすんなりと説明できるわけではありません。

例えば、日本人に身近な道具である箸について考えてみますと、何故、箸を使うのかと問われれば、色々な可能性を考えることが出来ます。たとえば、「指で食べるのは不潔だから」などという人がいます。これを正しい答えだと考える人も多いと思いますが、それは現代の日本の生活に慣れた人の、自己文化礼賛主義の思い込みです。もし、そうだとしたならば、指を使って食事をするインドやアラブ、アフリカの国々の多くの人々は、衛生観念に欠けているということになってしまいます。しかし、勿論、そんなことはありません。

さらに色々な理由を考えてみますと、例えば、大切な食べ物は、直接、手で掴むのではなくて、道具を使って間接的に持つべきだという考え方を、その社会で権力がある人物が考え出し、箸の様な道具が考案され、人々がその食べ方に従うようになったという考え方も出てきます。あるいは、熱い食べ物を取るのに素手では掴めないので、箸のような間接的な道具が必要となったことも考えられます。もしかしたら、大勢で同じ食べ物を分けるとき、手の大きい者や、動作が素早い者が一人占めしてしまうのを避けるために、箸を使うことで食べ物を取りにくくして、平等を図ったというのも、一つの可能性でしょう。このように、現在、食事に使用している道具を見てみると、いろいろな説を考えることが出来ますが、それらの多くは、理屈としては正しく見えても、実際は根拠がないというものがほとんどなのです。

また、文化というものが、事物を改良するという方に向かうものだという錯覚は避けなければなりません。たとえば、箸の文化を代表する中国の箸は、日本のものより倍近くも長く、根元と先端とが同じ太さです。素材は、良いとされるものは象牙などで出来ています。しかし、使い易さという点では、日本の箸より優れているとは思えません。
もそも如何なる種類の食べ物でも、道具を用いなくても普通に食べられるはずです。毒さえなければ、何でも食べてしまいます。まったく、人間の食事行為に見られるように、自然のままの産物から、手の込んだ料理まで、素晴らしいとされる物から、ゲテモノまで、多種多様な物を食べたがる動物は他にいません。通常、如何なる動物も、自らの種が食べ物とする物の種類は決まっていて、その食べ方までもが決まっています。様々な食べ物を創り出し、さらに、それを食べる様々な道具を創り出した人間は、動物でありながら、自分たちが動物であることを忘れるほどに動物離れしてしまっています。

将来、長い年月の中で、人間が如何なる食べるための道具を創り出すのか、そして同時に、人間自身の姿がどのように変化してゆくのかを考えると、少し恐ろしい気にさえなってきます。
間は、食事の場で使う道具のみではなくて、食べ物の素材を保存したり、変換(一般的には“料理”)したりするための道具を、数えきれないほど創り出しました。料理道具、食器、などを作るために使う素材削り道具(ナイフなど)から、素材を叩くもの、引き延ばすもの、混ぜる物、などなどです。また、保存に関しては、多様な容器が相次いで市場に出てきます。冷凍庫や冷蔵庫の改良は、目が覚めるほどです。最近では、一年前、二年前に入手した動物性、植物性の素材の味、鮮度などを一切損なわないという画期的な冷凍技術も現れました。

こうしたことは、かつては料理素材と料理の目玉であった“旬(しゅん)”というものが失われるというのではなくて、文字通りに“いつでも旬”という時代に入りかけているとも言えそうです。

西江雅之「“文化”を食べる人々」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。