「食」のエッセイ “文化”を食べる人々

第7章 “においと食べ物”

「におい」。日本語では、快く受け入れられる「におい」であるならば「匂い」と書き、受け入れ難いものである場合は「臭い」と書きます。その他、受け取る側の「におい」との対応のあり方によっては、同じ語が「香(かお)り」、「薫(かお)り」などと表記され、ニュアンスが異なることになります。

また、たとえば「香」というような文字を例にとりますと、「このお茶は香(こう)ばしい」、「この花は香気(こうき)が強い」、「この果物は香味(こうみ)に乏しい」、「熱帯の花は芳香(ほうこう)を放つ」などなど、合成語が続々と出てきます。同様に、「臭」という文字をとれば、「魚の臭み」、「ニンニクの臭味」、「ごみ捨て場の臭気」、「腐った魚が異臭を放つ」、「何とも言えない悪臭が鼻を突く」、「この部屋には、かすかに余臭(よしゅう)が漂う」、「あの人は体臭が強い」、「タバコの口臭が嫌いだ」、「酒臭い息を吹きかける」、「この野菜は青臭い」、「川魚は泥臭い」などなど、その例は実に多くなります。さらに、「匂い」「臭い」とは別の語を用いて「馥郁(ふくいく)たる梅の香り」とか「果実の芳烈(ほうれつ)な香り」と表現したり、「ツンとした」、「つんつんくる」、「ぷんとする」、「ぷんぷんする」、「甘ったるい」などという語を足して表現すれば、日本語に見られる「におい」を表現する単語の豊富さには、今更ながら驚かされます。
体の中で、鼻に託されている役割は空気を吸って息をすることと、においを嗅ぐことです。そのうちの「におい」なるものは、身の周辺に立ち込めたりするものなので、体から離れた所に存在するかのように感じられるのが自然です。しかし、「におい」はある種の物質で、それが鼻の中の嗅覚器官を刺激することによって感じられるものなのですから、ある物質が舌に触れることによって感じられる味覚と同様に、実際は、接触感覚なのだとすることも出来るでしょう。ただし、味覚の場合のような個人的なものとは異なって、嗅覚の場合は周辺にいる人間をも同じ感覚に巻き込んでしまうという点が特徴的であると言えます。さらに、それは手や足で物に触れる場合に感じる“冷たい/熱い”とか、“固い/柔らかい”といったような直接的、物理的な触感ではなくて、「におい」は鼻の中のある場所と「におい」物質との接触が起こす化学反応が主役となるので、実際は単に接触によるものとは言えない複雑なものでもあります。

「におい」の話題は、あまりにも射程範囲が広すぎます。身の周辺に溢れる様々な物の「におい」の種類は数え切れません。それに、「におい」は極めて主観的なものであり、情緒的なものでもあるので、その分類を客観的に行うことにも困難が伴います。そこで、「におい」そのものを分類するよりは、「におい」を出すものの側に基準を置いて分類するのが一般的となります。バラのにおい(香り)、糞尿のにおい(臭さ)、香水のにおい(匂い)、タマネギのにおい、などのようにです。化学や生理学に根拠を置く分類は、実感として感じることは難しいのです。

海のにおい、森のにおい、大気のにおい、草花のにおい、特定の人物のにおい、などなどの他に、人生の始めから付いてくる「におい」もあります。「母のにおい」とも言える乳の匂い、自分が出す大小の便の臭い、家庭の食事の匂い、汗の臭い、病の臭い、男のにおい(匂い/臭い)、女のにおい(匂い/臭い)、異性のにおい(匂い/臭い)、死体の臭いまで、日常の生活から「におい」を取り去ることは出来ません。
こでは、多様な「におい」のうちから“食べ物(飲み物)”に関わる「におい」のみに話題を絞って考えてみたいと思います。

食べ物の「におい」は、文字どおりに食欲を左右します。快い匂いがする素材や料理は食欲を増します。不快な臭いがする食べ物は、食欲をそいでしまいます。風味(フレイバー)という語は、今では味をも含んでいますが、もともとは「におい」を意味していました。

そんなことは分かり切っていると思うでしょう。しかし、一口に「快い」、「不快な」という一語で片付けてしまうそのことが、実は、食べ物に関しては大変厄介な問題を含んでいるのです。まず、食べ物の場合、「におい」には味覚以上に大きな文化差が見られます。もちろん、ある種の強烈な「におい」のなかには、文化差などなくて、人類すべてに共通の不快感を与えたり、吐き気を感じさせたりするものもあります。そうした例はすべて、良い匂いとか快感を感じさせるものではなくて、結果的には死に至るといったような人体にマイナスの効果を与える物であることには注意が必要です。

文化差の話に戻りますと、ある土地では、誰からも大いに好まれている食べ物の「におい」も、他の土地の人々には耐え難いものとなります。それは、ある土地では常食としている果物のように、「におい」が大きな役割を果たしている食べ物や、日常的な煮物・炊き物の類いの料理の類には普通に見られます。たとえば,アラブ社会ではヒツジの肉を好んで食べますが、田舎の食堂に入った途端、ヒツジの「におい」が部屋中に充満していて、とても耐えられないという外国人旅行者によく出会います。何しろ、木のテーブルの中にまでヒツジの脂の「におい」が染み込んでしまっているのですから、土地の人々にとっては、それは快い「匂い」であっても、別の「におい」文化を持つ人々にとっては耐え難い「臭い」となるのです。

また、同じ文化圏の中にいる人にも「におい」には個人差が大きく見られます。食べ物の場合ですと、自分が大嫌いな食べ物を隣の人物が食べていても、それほど気にはなりません。他人の食べ物は、眺めているだけでは自分が味わなくてもすむからです。しかし、「におい」の場合はそうはいきません。効果が他人にまで直結して関わってきてしまうのですからたまりません。「におう」食べ物のなかには、“臭いからこそ快い”というものまでが少なからず見られるので、問題はさらに複雑になってしまうのです。

嗜好品の一種である葉巻タバコは、一般的に高級で高価な物ですが、それを吸っている人のなかには「におい」を楽しんでいるのみか、自分の社会的な地位を喫煙と同時に他人に見せることで悦に入っている人もいます。しかし、場所によっては、その臭気に耐えることを強要されているように感じる人々も少なくありません。葉巻と比べれば、決して高級な食べ物だとは言えませんが、“くさや”も同じような意味を持っています。狭い一杯飲み屋のような所で、店のばあさんに焼いてもらった“くさや”を美味しそうに食べながら、チビチビ飲んでいる人物は、その「におい」を嫌う人が周囲にいることにも気づかずに、その味を楽しんでいることがあります。強い「におい」がする食べ物に接する時は、周囲に対しての、それなりの心づがいが必要とされます。

腐り物の「におい」は、一般的には単なる「臭み」であるだけではなくて、その物が体に害を及ぼすぞという、一種の危険信号としても役立っています。しかし、食べ物のなかには、わざわざ腐らせてその風味を味わうというものさえ見られるのです。そのような食べ物も、ある人には快い匂いであっても、他の人々にはただ臭いものであるに過ぎないのです。発酵させて食べる。その種の食べ物を作るのは、日本が最も得意とする料理の領域です。
い意味での「食べ物」のなかで、「におい」に関係する最も身近なものは「飲み物」です。酒、茶、コーヒー、紅茶などから「におい」を除いてしまったならば、それらの価値は半減、あるいはそれ以上の価値を失ってしまいます。たとえば茶の場合、「におい」の種類に僅かな違いがあるだけで、その価値は信じがたいほど大きく左右されます。茶の文化が極めて豊富な中国を例にとれば、「におい」の種類、産地、保存期間などの違いによって、タダ同然というものから、一杯何千円もするものまでが見られるということになるのです。

飲み物は、完成品となったものが発する「におい」の他に、製品が満足がいく完成度に達しているかどうかを確かめるために、その道の専門家が嗅ぐ「におい」というものがあります。その代表例は日本酒の “利き酒”です。利き酒の専門家というのは、本来は、酒の香りだけに頼るのではなくて、酒の色、味(甘口/辛口)、濁り加減などから、酒の貯蔵場の環境を支える光の加減、温度加減から保存管理までの面倒を見る人を指していたようですが、ここでは「におい」のみに注目してみます。すると、「におい」を表現する語に、甘臭(あましゅう)、炭素臭、ビン臭、カビ臭、酸臭、油臭(あぶらしゅう)、古米臭(こまいしゅう)などという語が何十種類も出てくるので驚きます。以上のような「におい」は、その文字面から何となく分かるような気がしますが、新酒ばな、木香(きが)、老ね香(ひねか)、日向香(ひなたか)などとなると、素人にはまるで見当が付かないような「におい」です。日本には、このように複雑な「におい」の区別が、日常的な食べ物である茶、味噌、醤油、海苔など、それぞれの業界にはあるというから大変なことです。

ヨーロッパの酒と香りと言えば、ワインです。ワインは飲む側の人が、まず、香りを味わうことを前提としています。わたしのような雑な人間は、あまり深く考えない事にしていますが、まともなレストランに行けば、ソムリエは主客から注文を受けたワイン(これだけで、客の品定めが出来てしまう)を少しばかりグラスに注ぎ、「如何ですか?」と尋ねます。それを受けた主客はグラスを鼻に近づけ、ゆっくりと香りを確かめ、ワインには問題が有るか無いかを気品を持って答えるというのがお決まりです。これを単なる儀式として行うのではなくて、自分で本当に香りを楽しめるようになるまでには、相当の散財を覚悟しなければなりません。本物の「香り」を会得するには、高額の勉強資金が必要だと悟るのです。
食と洋食やインド、アラブの料理との違いは、「におい」に関しても明確に現れます。日本料理は基本的には素材重視です。素材そのものが持っている香りか、そうでなければある素材と別の素材との組み合わせが醸し出す香りを大切にします。

他方、ヨーロッパ、アラブ、インドなどでは、香辛料(スパイス)を使って素材の味を変化させることに関心が向けられています。香辛料は、素材が持つ嫌な「におい」を取り除きます。また、ある種の香辛料は素材に一味加えることで、素材本来の味を一層引き立てます。場合によっては、人々が好みそうな別の味に素材を変化させてしまうことに関心が向けられています。

インド料理やスペイン料理が香辛料の上塗りで出来ているので、わたしはそれらを“厚化粧料理”などと表現することがありますが、それは決して悪い意味で言っているのではありません。食べ物は、出来上がりが評価の出発点となるのです。完成品に至るまでの過程が二の次であるのは、熟していない状態を対象にして果物の評価をするようなものだと思うからです。
べ物との関係で、ほとんどの日本人が身近に感じる、または身に染み付いてしまっている「におい」を代表するものとしては、味噌、たくあん、魚、地域差がありますが納豆、などです。また、ヨーロッパ人の場合は、ミルク、バター、チーズのような乳製品の「におい」や四つ足獣(牛、羊など)の肉の「におい」です。言うまでもなく、こうしたものは、その土地の食文化を反映しているからです。また、それぞれの土地の人々は、そうしたものをもっぱらそのままの形で食べているのではありません。多くの素材と混ぜ合わされて料理に溶け込んでいるのです。

香辛料(スパイス)は「匂い」を食べさせる物の代表選手です。コショウ、カルダモン、ナツメグ、クローブ(丁字)などなどと、あえて名称を挙げていく必要はここではないでしょう。近所のスーパーマーケットの食品売り場を覗けば、日本、中国、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸などで使われている香辛料が、種類豊富に並んでいます。専門家向けの店でもないのに、そこの置かれている香辛料の種類の多さには驚きます。巷の書店の料理本の棚にはスパイス関係の本が、素人向きから本職向きのものまで、何種類も並んでいます。最近、急増している一般向けの西洋史の本、東洋の海外交渉史の本から、香辛料の話題を避けることは出来ません。女性に人気がある“ハーブ”関係の本も、華やかな料理そのものだけではなくて、美女が立つ台所、格好が良い調理器具などの写真に飾られて並んでいます。“ハーブ”とは、本来は “葉”という意味なので、香辛料のなかでも木の皮や根を使ったものとは種類が異なる物なのですが、その点は適当なものも見られます。 昔の中国やヨーロッパでは、香辛料の多くは、薬品として用いられる野生の植物(草や木の葉や花)から採れる物でした。現在の“ハーブ”の流行は、漢方薬のような意味としてよりは、女性の健康薬品、美容薬品、癒しとして「香り」を楽しむものといったことに支えられているもので、食べ物としての香辛料を求める人々の関心とは少し向きが異なる部分も見られます。
「におい」の話は、それを受ける側に重点が置かれるだけではありません。美味しそうな「匂い」を出して人を引き付けるという例も様々あります。路上には、季節によって品物が変わる屋台が顔を出します。焼きトウモロコシ屋、焼き芋屋、焼き甘栗屋、おでん屋などなど、こうした店に置かれる食べ物の「におい」は、それが届く範囲は限られています。その狭い領域内を通過する路上の人々は、その「におい」に、ふと引き寄せられます。そして「におい」に釣られ、食欲を押さえ切れず、思わず買い求めてしまうということになるのです。それは、「におい」という網を張った蜘蛛を思わせます。

食べ物の「におい」について、いくつかのことを話して来ましたが、素材と「におい」の関係で注意しなければならないことがあります。それは、同じ素材であっても、調理の仕方が異なれば「におい」はまるで異なったものになってしまうということです。すなわち、たとえば“米のにおい”とか、“ネギのにおい”とか一口に言ってしまうことは出来ないということです。

米粒そのものが外から見えるものであっても、ふっくら炊いたご飯、焼きおにぎりの焦げた皮、おかゆ、米せんべい、などの「におい」は、とても同じ素材のものとは思えません。それに、米を主成分とする和菓子の類を加えたならば、米の「におい」は、まさに多様です。まったく同様の仕方で炊いたご飯でも、新米と古米、古古米の区別を「におい」だけで付けられる人は決して珍しくありません。
在、残念に思えるのは、より良い「味」や、より良い「におい」というものを、時代の流行に合わせる、流行を先取りするという方向のみに関心を向けて、人工的な化学「味」、化学「におい」を作り出すことに、大量生産をする側が力を入れ過ぎていることです。

より良い味や「におい」がするものを作り出すということでは、問題となる点は一切ありません。気になるのは、マスメディアなどの言葉に流されている人々の嗜好に少しでも反するような物があれば、それをこの世から消し去るという努力を強力に行っているということです。

「におい」の世界は、普通の環境の中では極めて豊かです。しかし、現在は、食品の多くが人工的に作られた物であったり、人工的な味や「におい」を付けられた物となっています。一般的な人々の日常生活では、その種の食べ物を避けて生活することは出来ません。ということは、少し大袈裟に表現すれば、人間にとって「良い味とはこういうものだ」、「良い“におい”」とはこういうものだ」と誰かに強いられ、決め付けられた物だけを“良い味、良いにおい”と信じて人々は口にしているということにもなります。すなわち、食べ物に関しては、世間で受けが悪い味や「におい」が排除されたものしか知らないという生活者ばかりになるということでもあります。周辺にザラにある食べ物が持っているはずの自然、すなわち当然の「におい」の価値を知らない人々が増えるということです。ナマの素材の味と「におい」を生かすという日本古来からの「におい」文化を、見直すことが出来なくなる時代に、既に入り込んでしまいかけているのでしょうか。

西江雅之「“文化”を食べる人々」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。