「食」のエッセイ “文化”を食べる人々

第3章[第2回] コミュニケーションとしての”食べ物”

[第2回]

回は、“食べ物”というものが、単に生命を支えるものではなくて、“言葉”、“人物特徴”、“身体の動き”、“環境”、“生理的反応”、“空間と時間”、“人物の社会背景”といった7つの要素に支えられて、日常のコミュニケーションを支えるものとしての役割をも果たしているということの話を始めました。以下、それらの要素と、その働きを、順を追って眺めてみたいと思います。

要素1.ことば


言うまでもなく、現在は情報の時代です。食べ物に関しても、実際に自分の舌で味を確かめるというよりは、他人が与える情報を信じて食べ物を味わう人々の方が多くなっています。テレビでわずか数回、なになには世界最高の味、というようなことを放映すれば、食べ物を売る店の前には長い行列が出来ます。それを食べた人は、「本当だ。こんな美味しい物は初めて食べた」と、本気で言います。この料理の素材は本場物です。この料理は、どこそこの有名店で修行したシェフが、直々に料理しました。これは、皆が知っている大スターの好物です。と、このような“ことば”が、食べ物の評価を左右することが普通になっているともいえます。

外来語はどうでしょうか。戦後から始まって現在に至るまで、簡単に日本語で表現できることも、カナ文字で表現すれば一味違った食べ物として受け取られます。それは、食材や料理の名だけではありません。店の名前までが同じ傾向を強く持っています。

この2年ほど、そのことでは少し変化が出て来ました。大正時代や昭和の初期には巷で見られた造りの居酒屋が、どっと増えました。ひらがな名の店も増えてきたように見えます。最近までは支配的であったカタカナ名の食べ物の味が、今や、ありきたりのものとされる時代を迎えようとしているのでしょう。
こうして見ると、「人は“ことば”を食べているのだ」とも言えるでしょう。

“ことば”ということに関しては、“会話”を無視することは出来ません。食事中につまらない話題を持ち出す。食欲が進むような楽しい会話をする。こうしたことが、食べ物に抜け難く付きまとっていることは、説明を必要とはしないでしょう。

要素2.人物特徴


人物特徴には、外見から見えるものと、個々の人物の性格のように、外からは見ることができないものとがあります。飲食を共にする人物が肥満体なのか、それとも一見して拒食症気味の人物なのかというようなことは、外から簡単に見える部分です。そこに、その場でのメニューの選択にも影響が出ます。相手を思っての遠慮も出てきます。また、相手がネアカの人物なのか、それともネクラの人物なのかは、食事中の会話などに簡単に現れます。それによって、同じ食卓についている者の食欲のあり方は大きな影響を受けます。

共に飲食をする人物が、大食いなのか小食なのか、早食いなのか遅食いなのか、相手は子供なのか、老人なのか、恋人なのか、このようなことが“食べる”ということに大きな意味をもつことは言うまでもないでしょう。

また、世間には“食べ物”に関して、特別な主義をもっている人が少なくありません。菜食主義者もいれば、もっぱらゲテ物を食べることを趣味としている人もいます。

相手が、自分にとって如何なる関係にある人物なのかということは、飲食の味わいや満足感に大いに関係することなのです。また、この“人物特徴”という要素は、7番目の“社会背景”という要素とは、特に深い関係を持っています。

要素3.身体の動き


世界の如何なる場所でも、食事は“どのように”するかということが、慣習的に定まっています。たとえば、ある土地では昼食は取りません。そのような場所では、昼間に人前で食事を取るとしたならば、やや控えめに、こっそりと食べなければなりません。味よりは、食べることそのものに集中することになってしまいます。

食事を共にしている相手が、不味そうな表情ばかりしていたならば、自分の食べ物までもが不味くなってしまいます。格好良いワインの飲み方、上品な箸使い、こういうことを大いに気にする人は、少なくありません。そういう人は、他人の行動を見ているだけで、自分の飲み物、食べ物の味までが変わってしまうのでしょう。

何かを食べたり飲んだりする当人が取る動作とは別に、飲食物を与える側の動作が、味作りに大きな役割を果たす例は、沢山あります。寿司屋の主人が、熟練した手つきで握る寿司、料理人が極めて巧みな演技を披露しながら焼くステーキ、こうした料理を作る時に料理人が見せる動作は、味のみならず、食欲の増進にまで影響を与えます。喫茶店やレストランの従業員の態度が、その店が出す料理の味に直接的に関係することは、日常的に観察することでもあります。

要素4.環境


ここで言う“環境”とは、自然環境といったような大きなものではなくて、何かを飲食しているときに、その人物たちを包んでいる“身のまわり”といったような意味で使います。

環境には、2つ話題があります。その一つは、飲食をする者のために与えられている場を包む環境です。すなわち、「ここで飲食をするように」と指示されているような場所を包む環境を意味しています。会社や学校の食堂。行きつけのレストランや蕎麦屋。そうした場所は、その内部を客が自分勝手に変えてしまったりすることは出来ません。それは、“与えられた”環境だからです。

もう1つは、自分の意志で作り変えられる環境です。たとえば、自分の家の食堂は、食事の度にその部屋を好みに応じて改造したりすることは出来ません。しかし、その食堂のテーブルに花を飾ったり、洒落たテーブルクロスを掛けたりして、その場を演出することは出来ます。それは“演出環境”であるとも言えます。

大切な人が家に来るからといって、散らかったテーブルの上を片付け、台所や食器類を片付けるのも、演出環境作りです。

喫茶店やレストランでは、店の外見や内装には、非常に気を使います。その理由は言うまでもありません。客に料理をすこしでも美味しく食べてもらいたいからです。また、客の側から言えば、誰かと喫茶店やレストランに行こうとする場合、とりあえず一番近くにある店に飛び込み、入り口から一番近い席に座るなどということは、極く特別な場合を除けば、ありません。相手によって、行くべき店を選び、二人のコミュニケーションに“そぐう”ような席を選びます。

このように、与えられた環境の中で、人は無意識のうちにも、環境を演出し、そこに出される飲食物の味が少しでも良くなるようにと努力しているのです。

要素5.生理的反応


まず、ここで言う“生理的”という単語は、食べ物の消化作用とか吸収といったような本来の生理学的な意味で使われているのではありません。嬉しそうな顔、我慢している顔といったような、飲食に付きまとう顔の情動表現や、特殊な匂いや味を感じた時に見せる身体的な反応を意味しています。

直接的な生理反応は、食べ物と、それを食べる当人の身体の一部との接触によるものです。激辛のカレー、激辛の麺類、強烈な匂いを放つクサヤのようなものを食べる場面では、ある者は拒否感をありありと示す顔付き、動作を示しますが、ある者は究めて満足といった表現をします。また、人によっては、強烈な拒否感を表す相手の表情を見て喜ぶといったような、ひにくれた反応を見せることもあります。

さらに、飲食物には顕著に見られる反応があります。幼い頃に「それは気持ちが悪い。そのようなものを食べるのは、まともではない」と、言葉で教え込まれていたり、皆が認めたがらない物を食べてしまったことで周囲の人々にからかわれたり、他人から苛められたりした、という経験がある人は少なくありません。そういう人のなかには、旅先で出された地元の肉料理を、せっかく美味しいと思って食べたのに、「それはイノシシの肉ですよ」と言われた途端に、「ゲッ!」と、吐き出す人さえいます。そのような場で見られることになるコミュニケーションが、どのようなものかは簡単に想像できるでしょう。

要素6.空間と時間


この要素に関する話は、飲食物の関係では、ほとんど目にすることはありません。
しかし、空間と時間は、コミュニケーションの要素のなかでも、最も重要なものだと言えます。目で見ることができないこの要素は、飲食を伴う場で非常に生産的なものとして働く場合もありますが、その場を完全に壊してしまう要素にもなります。“空間”や“時間”は、目で見ることはできません。しかし、コミュニケーションで果たしている役割は、非常に大きいので、それらを“沈黙の言語”というタイトルで、独立させて扱う研究者もいます。

まず、“空間”を代表するのは、当人と相手との“距離”、相手との“向き”、そして、飲食の場に見られる“スペース”です。

何かを食べたり、飲んだりしている時に見られる相手との距離、その場にいる他人との距離は、食欲や味に意外に大きな影響を与えます。混み合った立ち飲みコーヒーの店で、見知らぬ人と肘をぶっつけ合いながら飲むコーヒーよりは、ゆったりした店内で相手と落ち着いた距離を保ちながら飲むコーヒーの方が、同じ種類の豆を同じようにいれたものでも、味が異なります。

距離のあり方と味との関係は、相手が誰であるかによっても大いに異なるということは、言うまでもありません。仕事関係の者同士で商談しながら食事をする時の距離、親しい人との喫茶店での距離、洒落たバーで恋人同士で飲む時の距離、蕎麦屋で会いたくない借金取りと同席になってしまった時の距離など、そうしたものを考えれば、距離が食欲や味に関して与える影響の大きさは簡単に見いだせるはずです。

また、食事中、相手はそっぽを向きっぱなしだとか、相手は自分をじっと見つめているとか、キョトキョトしていて自分の方にまともに顔を向けないとかで、食事がうまく進まないということがあります。部下らしい人物の前で、体を全体的にやや斜めに構えて威張りくさって食事をしている人を見かけることがありますが、部下の方は料理を味わうことすらできずにいるように見受けられます。日本では、親しい者同士の飲食では、顔と顔は普通に向きあっていますが、上司などの前では、やや視線を落としているのが一般的なようです。しかし、時には視線の落とし方が極端に深くて、叱られ続けているような印象を、他のテーブルにまで与えていて、食事を暗いものにしてしまっている光景を見ることもあります。

スペースに関しては、それほどの説明を必要としません。ゆったりとした空間の中での食事、詰め込まれた食堂での食事など、複数の人間が一緒に飲み食いする時の理想的な空間は、誰にでも直感的に把握されるものなのです。また、スペース内での重要な役割を果たすのは、“縄張り”を根拠とした場の使い分けでしょう。すなわち、会場内で誰がどの位置を占めるか、誰がどの場所で乾杯の音頭をとるべきかといったことは、その集まりが公的なものであればあるほど、その後の会食に大きな影響を与えることになります。

“時間”の要素にも、2つの面が見られます。
まず、“刻”とでも言える要素です。それは文化的、慣習的に定められている日常の節目として時間です。朝食、昼食、夕食、子供のおやつ、などは、日本では半世紀ほど前までは全国を通じて、大体一致していました。また、春夏秋冬といった季節には、旬というものがあり、旬の食べ物は特別な意味を持ちました。そうした環境の中では、昼近くになって朝食をとるとか、季節外れの食べ物を食べるということは、それなりの社会的な評価を覚悟しなければならないことでもありました。現在では、食事時間は自由に決められますし、旬も単なる単語としてあるだけで、形骸化してしまっている部分も多く見られます。すなわち、日本では食と刻の関係性は薄らいできていると言えます。

時間が持つもう1つの要素は、食べたり飲んだりするためにかける常識的な時間です。
日本でも、だらだら食べるということは、あまり良いこととはされません。しかし、早食いというのは、日本の若者やサラリーマンの間では、極く普通のことです。こうした行為は、国によっては人々に受け入れられません。食事はゆっくり味わい、ゆっくり仲間とのコミュニケーションを楽しむことが、当たり前のこととなっているからです。食事は仕事の合間に素早くすますべきものと考える社会では、仕事中に食事を味わうという行為は二の次ということになるのです。

要素7.人物の社会背景


世界には、どの土地に行っても、「人間は元々こういうものだ」、「人は元来こうあるべきだ」と信じ込んでいることに支えられた人間関係が見られます。「男は女と一緒に食べるな」、「子供は親より先に食事に手をつけてはならない」など、こうしたことは、ある土地では、人間として当然のこととされています。すべての社会では、飲食行為には意外に多くの制約がかけられています。食べる行為は、そうした制約のなかでのみ許されているのです。

そのことは、制約を破ってやろうという誘惑にも通じることとなります。日本でも見られる未成年者の酒盛り、喫煙などはその一例ですが、そうした制約を破る事によって、味が如何に変わるものかは定かではありませんが、少なくとも、密かな喜びを与えるものであることは確かです。

人間関係が飲食に関係するもう1つの要素は、人為的な組織が作りだすものです。身近な例としては、所属団体に関して人々が持つ社会的な評価、格付けがあります。会社の客をレストランに連れて行くにも、名刺からの判断で、それなりの所を選ばねばなりません。「実は、近所に美味しい店があるんですよ」と言って、大切な客を安っぽい食堂に連れて行く訳には行かないのです。言うならば、面子(メンツ)というものが、食べ物の選択にも強く影響を与えているということなのです。このように、組織が食べ物に関係することでは、“ことば”を食べるという例(要素1)とも大いに重なり合うものであると言えるでしょう。

人間は、単に食べたり飲んだりするだけでなくて、それを「どのようにか」行っています。そして、その背景には以上のような多様な要素が密接に溶け合いながら同時展開しているのです。また、そのあり方は、人と共に食べる場合には、コミュニケーションの問題と直結するものでもあるのです。

次回は、「食べ物と伝統」ということについて考えてみたいと思っています。

西江雅之「“文化”を食べる人々」エッセイ一覧

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。