震災から1年が過ぎて ~精神看護の立場からのメッセージ~

末安民生 先生

東日本大震災から1年。メディアからは「がんばろう日本」「支えあう,つながる」「絆」など、被災地だけではない一体感を伝えるメッセージが継続的に発信されています。それでも、震災で心に傷を受けた多くの人は、今もなお様々な困難に直面しながら、日々の中で経済基盤だけでなく精神的にも問題を抱え続けているのが現状です。今回は、心の専門家から震災後1年を迎える今だからこそ伝えたいメッセージをお送りします。

日本精神科看護技術協会会長
天理医療大学医療学部看護学科 教授
末安民生 先生

第四章 悲しみと向き合う心

■ 失われた場所と時間

2011年3月11日に起きた大地震と津波は、人々に計り知れない悲しみを与えた。その悲しみは今も続いている。被害にあった東日本の沿岸地方の方々と福島第一原子力発電所の事故によって生活の場を奪われた人々の中には望まない場所での生活を続けざるを得ない人が20万人以上と推定されている。その人々にとってこの大地震からの1年半の時間の経過は、悲しみの解決に役立ってはいないと思う。
悲しみの解決策がない中でどこに希望を見出せばいいのだろうか。

静かに暮れていく夕日を見ていた場所、家の中にいたときに感じていた人の気配、その人の家族の中でしか感じられない雰囲気、屋根や壁、窓や軒をたたく風や雨の音。生活の身のまわりにある道具の手触りなど、どこかで再現しようとしてもできない人の暮らしの場。その人だけにしかない立ち振る舞いの位置と触れ合ってきた人との関係は、いまだ失われたままである。

大切な人を失った人、そばに置いておきたかったと感じているものや形についての記憶と哀別の情は、いつかは戻れると思って故郷を離れて遠くで思い出すという記憶としての故郷とはまったく別な、故郷から引き剥がされた喪失感である。

いつまで続くかわからない、いつまでこの気持ちが自分の中にあり続けるのかもわからない感情は、カレンダーの時間が毎日確実に過ぎていくこととは別な世界をつくっている。先の感じられないもどかしさは、人に未来という希望を描かせない。
未来を描くことのできない感情は、放射線被ばくという解決することのできない不安とも相まって日本だけにとどまらない世界への広がりをもっている。

■ 日常生活と旅の人

先日、岩手県の盛岡市で外国人の旅行者を受け入れている日本旅館のご主人と話す機会があった。その宿の今年の春から夏にかけての外国人宿泊者数は、例年の2割程度であるという。それでも例年の2割程度の人々は、大地震の翌年の春から夏にかけての東日本を旅している。世界中からの旅人が東日本の地を訪れているということを聞いて、私はわずかだけども気持ちが温まるのを感じた。

この旅をしている人たちは日本の大震災の救援やボランティアとして被災地に来たのではなく、日本の自然や人情に触れることを楽しむための旅の途中なのであろう。もちろん大震災のことを知っていて同情の気持ちを示しながらも、でも日常生活の1場面として旅を楽しむために自分の判断で日本を訪問の地として選んでくれた。
私は自分もその一員である国内外からの救援活動には深い敬意と感謝の気持ちを持つけれども、それと同時に日常の生活の大切さを教えてくれるこの旅人たちにも敬意と感謝の気持ちが湧いてくる。

悲しみと向き合う心持の人々にとっては、毎日が非常時である。過去の日常生活に近づくすべを奪われて、今の生活に心を許せなくなっている原因は、自分の今の気持ちでは解決できない困難にある。外国からの旅人は、そのような人々のそばに自分たちの生活を背負いながら登場して来ているのだ。旅を非日常と考えるのではなく、日常からの続きとしてとらえれば非常時の土地にとっては日常を持ち込んでくれているともいえるのである。

実は小さいながらも震災の後の混乱した状況下にも日常はあった。
震災直後の海外からの救援隊に、遠くから来てくれたのになんのお礼もできなくて申し訳ないと、飴玉を手渡していた老人がいたという報道があった。報道は老人の礼節について触れていたのだが、私にはその飴玉にはその老人の日常生活が宿っていると感じられた。救援隊という姿でよその土地からの日常が持ち込まれ老人は感謝の気持ちを示したのだと思う。

■ なぜ日常の生活が大切なのか

私は、自分の役割として精神科看護の専門家として心のケアチームに加わり被災者や、救援活動にあたっている人々への支援活動をすることに意義を感じていた。早く日常生活に戻ってもらいたい、少しでも生活しづらい環境を整えたいと思っていた。

確かに大地震の発生から1年半が経過して振り返ってみると、被災者はそれぞれに苦労しながら自分の生活ペースをつくりだしているともいえる。とはいうものの、多くの人は見た目の変化で仮設住宅や新たな仕事についてはいるものの、まだまだ救援期であり「復興期」などという言葉は一部の地域の限られた産業再生だけにとどまっている遠い話だと思っているのではないかと感じられる。
住み慣れた土地から離れている人や、家族が離れ離れに生活をしている人だけではなくて、たとえ家族と一緒だとしても、住み慣れた土地にいたとしても、見渡せば家族を亡くしたり、職を失うなど周囲に傷ついた人がいる環境の中で暮らし続けている。

1995年1月17日に起こった阪神・淡路の大震災のときに私は、1月と8月に兵庫に向かった。8月の支援の時には仮設住宅も建設されていて私の担当訪問先は、主として仮設住宅と、避難所に残っている単身者の人たちであり、疾患名のついたカルテが保健所で用意されていることもあれば「通報」によって情報の少ないままに出かけて扉を叩きはしたものの門前払いの時もあった。

その年も今年と同様に暑い夏で、汗をかきながら自転車で地域を周った。
幸いにも生き延びた人、といってもその生活ぶりはさまざまだし、接してみてわかったことなのだが、震災で生活基盤や人間関係を失った人もいたのだが、もともと他者との交渉の少ない方もおられた。どちらにしても一度失った生活の場所と社会との関係からは、元の生活ペースに戻ることは困難であるとこちらに伝える方が多かった。

予告なく訪ね、話を聞かせてもらい、困っているだろうことを予測したり、気がついたことを伝える。関西弁でないことに怪訝な顔をされれば、行政サービスの利用を促進するための応援部隊なのだけども、とさらに説明する。

しばらくしてあるとき、ふと気づいたことがあった。私が訪ねる人たちは一人住まいの方が主なのだけども、仮設住宅で隣近所の声掛けや「寄合所」などにいるボランティアか、行政関係者の訪問以外には、まったく誰とも話していない。同じだ。被災者と同様に、私もまた、日中、訪問先で会話する以外には人と話していない日々が続いていたのだ。しだいに体が重くなり、やっていることに意味があるのかという自問と役に立っていないのではないかという自責の念、頭や体が重く、しかも空回りするような感じ。今思えば、私自身がうつの状態になっていたのだと思う。

■ 悲しみは他者との間にある

東日本での悲しみの現実は、突然に生じた。人の生活ではさまざまな人とのつながりが絶え間なく続いている。「生きている」ということはつながっているということなのに、続いているということなのにそれが絶たれる。この再びつなぐことのできない事実こそが悲しみとして人を苦しめているのである。

悲しみは、その人らしく生きたいという自然の求めを妨げている状態であり、自分ではどうすることもできない存在になってしまうということなのである。だれかがその代わりとなってつながろうとしてもつながることができないのであるから新たな悲しみを生むことになる。他者との間での悲しみの連鎖だ。

自分らしさを取り戻したい、元の自分に戻りたいと、日々思い周りの心配も解っているのだ。そこでまた悲しみが新たな苦しみに出会うというのでは援助の焦点をどこに絞りどのような接点を持てばいいのか援助関係といいながら葛藤を抱えた支援になってしまっている。

人が生まれて生きてきた歴史や家族などの人との関係性は、さまざまな要因がからみ合っている。1つのかかわりの線だけではない、いくつもの偶然が重なり合ってひとりの人の歴史がつくられている。悲しみから解かれるのにはそのいくつもの偶然が再び重なり合う時間が必要なのだと思う。

■ 心のケアは長期的な支援

東日本と兵庫の地に立って傍観者にはなれない支援者としての自分が「私も悲しみと向き合っている」ことに気がついて、これを専門的に整理してしまえば「二次的なPTSDの状態」と説明はできる、惨劇の当事者にかかわる人の二次的な障害ともいわれる。客観的にかかわることの限界が支援者としての私に訪れたのである。

無論、私のような支援者ばかりではないのだが、震災後の影響は時間が解決させることはなく長期化している。行政は継続的な心のケアの必要性から2004年には兵庫県にわが国で初となる震災後の「心のケア」についての相談・診療、調査研究、研修、情報発信と普及啓発などのために兵庫県立こころのケアセンターを設置し、今また震災被害三県に心のケアセンターを設置して長期的な支援に取り組んでいる。

次回のテーマは、「医療現場から(その1)」です。

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