震災から1年が過ぎて ~精神看護の立場からのメッセージ~

末安民生 先生

東日本大震災から1年。メディアからは「がんばろう日本」「支えあう,つながる」「絆」など、被災地だけではない一体感を伝えるメッセージが継続的に発信されています。それでも、震災で心に傷を受けた多くの人は、今もなお様々な困難に直面しながら、日々の中で経済基盤だけでなく精神的にも問題を抱え続けているのが現状です。今回は、心の専門家から震災後1年を迎える今だからこそ伝えたいメッセージをお送りします。

日本精神科看護技術協会会長
天理医療大学準備室 教員
末安民生 先生

第一章 話しだそうとしたそのときに─被災当事者でない者の役割

■ 震災から一年を経て

4月は、多くの人にとって未来のことに目を向ける大切な時間です。3月はいわばその助走であり、年の瀬とはまた別な意味を持つ大切な区切りの季節です。この季節の区切りとは、仕事を勤め上げた人を称えることであり、卒業という晴れがましい人々の笑顔に接するという周囲にとってもうれしさと立場によっては少しさびしい気持ちが交差する複雑な季節です。「区切り」という明確な響きがもたらす影にある微妙な気持ち。新生活のスタートに向かうという区切りには、明暗を持った複雑な感情が光となり影となって助走を彩っているのです。

「区切り」とことばにすると微妙な感情の影は背景に退くのですが、実は、人生における区切りはことばでいうほど簡単なことではないことがさまざまな研究でもわかってきています。例えば昇進うつ病であり、配偶者を失い残されたものの存命率の男女差です。

先人の教えでは、人々の暮らしの中での悲しいできごとは「時間が忘れさせることもある」と知らされ、「場所が変わることでいつの間にか気にならなくなる」ように周囲が気遣うこともあるでしょう。しかし、予期せずに人の暮らしを根こそぎ奪うようなできごとは、時間をさえ止めてしまう。時間と感情はときに凍りつくことがあるのです。

そして今年の4月。例年通り、人が去り、新しい人が立ち現れ交差する季節の訪れ。この季節に特有の明るく華やぐ感じは得られないのではないでしょうか。

■ ひとりひとりの中にある被災体験

さまざまな場所で、それぞれにときを経ながらも、一年という月日を経ても3月11日を弔う気持ちはまだまだ人々の暮らしのなかに広がっているのだと思います。世代交代の初々しさを楽しみながら新しい春を迎える気持ちにはなれないことは自然な感情の表れなのだと思います。

今は幸福に暮らしていると感じている人も、これからの幸せを願いながら毎日を送ろうとする人にとってもその感情の影の中には3月11日のできごとが重なり合っている。これが新しい春を迎えている私たちの現実だと思います。では、当事者でもない私たちは自分たちの感情の影にあるできごとと向かい合うことはできるのでしょうか。被災の現状を知らされて、どのような振る舞いをすることが当事者の気持ちを安らかにさせることにつながるのか。

私は自分の感じている自分という存在感を示し、被災された人が必要だと感じる瞬間にその相手になることができるのだけど、ということを示しつづけることがすべての始まりになるのではないかと思います。それこそが当事者でないものが遠くの地にいて被災の現状を知り、被災された人に近づける唯一の手立てではないかと思います。

■ なにかをしたいと思えるときを待っている

人にはその人自身にさえとらえきれない重大なできごとがあります。ほかの誰かに説明しようにもことばに言い尽くせない、こころの穏やかさが失われるできごとです。日頃の生活を続けながらその大きなできごととともに暮らさざるをえない。そのような人にも看護師は、ことばに尽くせぬ人の痛みや苦しみを推測し、感じる訓練を受けています。といってもどの看護師もがその役割を果たせるのかといえば答えはノーでしょう。ご本人にさえ言葉にできないことに向き合うことは至難のわざなのです。なかなかできることではない。

例えば、自分を含む人の生死であっても、わかりきったことなのにそれに慣れるということは実はないのです。看護師は生死は日常であることが教育されています。日常であるからこそもっとも尊厳をもって迎えるべき所作が求められるわけです。そして喪失につき合うこと。家族や近しいものたちを失うことの痛手はあまりに大きいことを理解してそのそばに寄り添う。寄り添って時を過ごすことの難しさはおこなうものにしか説明できない困難な行為のひとつです。これも看護師ならだれでもできるわざではありません。

「解決はときの流れとともに訪れる」といいますがほんとうでしょうか。「なにかに夢中になって思い出さないようにする」、という表現もよく聞く言い回しです。ですが、被災地の私どもの同僚である看護師たちは、思い出さないようにすることができないときを送りつづけています。自分も生死をさまよいながらも最後に力尽きて手が離れていってしまった患者さんのそのときの手の感触を感じながら生きています。

あの状況下では、それは看護師であろうが屈強な体力を持っている人であろうが誰も助けることなどできなかったではないかと同情の声もあるようですが、そのような「不幸の公平性」のような論理は当事者にとっては何の意味もないのです。

静止画が静かにだが動きす瞬間を待つ。そばに人がいる存在感をしめしつづける準備の状態、それまでは余計なことは言わずに座して待つ。何年かかろうともできることを示しつつ待つのが今の私たち当事者でない看護師たちの被災者や被災した看護師をはじめとする被災者に対する「語ろうとしない看護」なのだと思います。

著者を含む精神科の看護師の具体的な支援活動は日本精神科看護技術協会のホームページでご覧ください。
http://www.jpna.jp/outline/greeting.html

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